「KAMUと呼ばれるのは侮蔑?(3)」(2018年04月18日)

言うまでもなく、家族関係の名称を二人称に使う慣習は人間の精神面のあり方が手綱を握
っているわけだから、対人接触における上下関係を本気で捨て去らないかぎり、「アンダ」
が全面的に「イブ」や「バパ」に取って代わることはありえないだろう。

世の中が人間の対等化に向かって突き進んでいるのを示す諸現象が一方で起こっていなが
らも、一般庶民はまだまだ従来から親しんできた対人接触のあり方を心地よいと感じてい
るにちがいない。

アメリカへ移住したインド人一家がある。子供たちが両親をまったく自分と同等に扱い、
親をユーと呼び捨てにする態度に接して、両親はいつまで経っても違和感がぬぐい切れな
い、と愚痴を述べていたそうだ。


KBBIでは、「カム」をこう説明している。
yang diajak bicara; yang disapa (dalam ragam akrab atau kasar)
一方、「アンダ」の定義はこうだ。
sapaan untuk orang yang diajak berbicara atau berkomunikasi (tidak membedakan 
tingkat, kedudukan dan umur)
つまりそれらの二人称単数代名詞はそういう違いがあるということなのだ。

「カム」の定義にあるように、ひとつの言葉が親密さを感じさせ、同時にぞんざいで粗野
な印象をも与えるという二律背反はいったい何なのだろうか?

形式的に敬意を表す社会規範をかなぐり捨てたところに親密感が生じるという精神作用は、
どうやら世界中のどの文化にも見られるようだ。敬意を払うという社会規範は往々にして、
相手を見上げるために心理上で距離を置くことを骨子にしているように思われる。ならば、
距離を置かずに相手を見下すスタイルを採れば、社会規範をかなぐり捨てることができる
のだろう。

その因果関係が的を射ているかどうかは別にして、現実に存在している形式を見るかぎり、
そういう心理メカニズムの存在は大いに想像できるようにわたしには思える。そこにある
本質は「ネシア蔑称論議」のものと相通じているようにわたしには感じられるのだが、そ
れはそれとして・・・・


ところがインドネシア社会では、常識で考えられないようなことが起こっている、とスエ
ーデンで初のスエーデン語=インドネシア語辞典を編纂したスエーデン人インドネシア語
学第一人者であるアンドレ・モラン氏が指摘した。

インドネシア最大の移動通信オペレータに何かを問い合わせると、フェロニカ(Veronica)
と名乗る女性が応対してくれる。と言うか、一方的に向こうが述べるのを聞くだけという
のがほとんどだが。このフェロニカというのはVoice Response and Info Careの合成語だ
そうで、つまりは人工頭脳が女性の声でしゃべっているということらしい。[ 続く ]