「スネン(4)」(2018年04月19日)

モッスル総督はチリウン川からスネン三角地帯の北端を横切ってパサルスネン通り西側に
ぶつかるカリリオ(Kali Lio)を掘らせ、そこから通り沿いに北上させて、グヌンサハリラ
ヤ通りの西側を延々とジャカルタ湾まで達する一直線の運河に結びつけ、スネン市場への
水上交通の便を向上させた。

そこにはもうひとつ、モッスル総督所有の豪邸フィラウエルテフレーデン(Villa Welte-
vreden)にとっての水上交通の便という私的なメリットも存在した。なにしろそのフィラ
ウエルテフレーデンというのは、現在のガトッスブロト陸軍中央病院の場所にあったのだ
から。


フィンクの人物像はいまひとつよくわからない。1735年ごろのVOCの記録に地区首
長としてその名前が登場しているのは、かれが地主として自分の領地の統治権を行使して
いたことの表われであるにちがいない。

実は、タナアバン市場もフィンクが地主になっていた。かれはスネン市場とタナアバン市
場を結ぶ道路を建設して、両市場間の物流促進を図ろうとしたのである。こうして作られ
たのがプラパタン(Prapatan)通り、クブンシリ(Kebun Sirih)通り、かつてカンプンリマ
(Kampoeng Lima)と呼ばれたサバン(Sabang)通り(今ではアグスサリム(Agus Salim通り)、
そして旧タマリンデラアン(Oude Tamarindelaan, 今のワヒッハシム(Wahid Hasyim)通り)
という横断道路だ。


オランダ植民地時代末期の民族運動が活発化した1930年代、パサルスネン地区はST
OVIA学生を主体にハイルル・サレやアダム・マリッらをリーダーに仰ぐ青年知識層や
地下活動家の徘徊する舞台となっていた。スカルノやハッタもしばしばここを訪れて、青
年層へのアプローチを行っている。

1942年に日本軍政が開始されてから、パサルスネン地区は貧しい芸術家が集まるアー
トセンターの趣を呈するようになる。スネン地区に巣食う芸術家たちはスニマンスネン
Seniman Senenの異名を取った。アイップ・ロシディ(Ajip Rosidi)、スカルノ・ノール
(Sukarno M. Noor)、 ウィム・ウンボ(Wim Umboh)、HBヤシン(HB Yasin)らがその体表
格だ。

オルバレジームが基盤に据えた開発ポリシーによる経済発展の波を受けて、1970年代
に入る前後からスネン市場は着々とその機能を充実させて行った。映画産業が台頭してく
れば、スネン地区に大型映画館レックス(Rex)やグランド(Grand)がクラマッブンドゥル通
りの向かい側に作られて、庶民に時代の息吹を分け与えている。

不世出の名都知事と謳われているアリ・サディキン都知事がスネン開発プロジェクト(通
称プロイェッスネンProyek Senen)を打ち上げると、都民のスネン市場に対する期待は更
に盛り上がった。その目玉のひとつは旋回式に上り下りする駐車ビルで、ジャカルタはも
とより全国で初めての駐車ビルを庶民はドキドキしながら上り下りしたものだ。[ 続く ]