「KAMUと呼ばれるのは侮蔑?(終)」(2018年04月19日)

このフェロニカさんは、電話してきた相手にだれかれ構わず「カム」と呼び掛けるのであ
る。インドネシアでは目上の人間に「カム」という言葉を使ってはいけないぞと叩き込ま
れたモラン氏が、いざその事態に直面した時、かれの心中がどうざわめいたかはきっと想
像にあまりあるだろう。

しかし、SMSの場合、「カム」の頭字が大文字にされていることにかれは気付いた。そ
れは「アンダ」の頭字が基本的に大文字で書かれるのと同じ手法で、そうすることによっ
て読む者が筆者の敬意を感じるようにするのを目的にしている。

注意深く観察して見ると、SMSで入ってくる広告宣伝やマスメディアのそれにも、「カ
ム」が使われているものが目立つようになってきている。実生活においては、依然として
「カム」と「アンダ」の使い分けに変化は起こっていないものの、移動通信やマスメディ
アが不特定多数を相手にするとき「カム」の使用が増加している傾向が見出された。

これはいったいどういうことなのか?akrabとkasarを感じさせる「カム」という言葉が初
対面の相手に使われるようになってきているのだ。初対面の自分に話しかけてくる相手が、
最初からとても親密な感情を抱いているという理解をして本当に良いのだろうか?それと
も乱暴な態度を示し、相手を委縮させることで自分が優位に立つというビジネス上の戦術
なのだろうか?直接対面しない相手だから、親密そうに振舞って消費者からの親しみを引
き出そうということなのか?アンドレ・モラン氏はこの現象にそう疑問を呈した。


実は、その疑問に関連するもうひとつ別の視点がある。世の中で現実にほとんどすべての
相手から「カム」と呼ばれている者たちの感受性だ。かれらは「アンダ」と呼ばれること
を嫌がるのである。

昔、わたしはもののはずみで、クバヨランバルのとある国立中学校の教壇に立ったことが
ある。生徒たちに向かって「アンダスカリアン」という言葉を数回使ったところ、担任の
先生から「かれらをカムと呼んでください。そのほうがかれらは快適なんです。」との注
意を受けた。「そんなことがあるものなのか。」とわたしは驚いたが、現実はそうなって
いた。

わたしの体験はそこまでしかないので、先生のその反応から判断せざるを得ないにせよ、
先生の発言は生徒たちの感情をきっと代弁していたにちがいあるまい。

もしも移動通信業界のマジョリティ顧客がそのような精神構造にあるのであれば、フェロ
ニカ女史が胸を張って「カム」と呼び掛ける姿は、ビジネス戦略上で当然すぎるほど当然
なものだろうとわたしには思われる。[ 完 ]