「スネン(終)」(2018年04月20日)

スネン三角地帯の北端をなしているスネンラヤ3通りは昔、ガンクナガ(Gang Kenanga)と
いう名称で知られていた。このガンクナガは現在のガトッスブロト陸軍中央病院の表門に
突き当たる位置をなしている。

コルネリス・シャステレインがガンビルからスネンに至る土地を買った後、かれはガトッ
スブロト陸軍中央病院がある場所に豪邸を建てた。そしてまた、バタヴィアで最初のプロ
テスタント教会をガンクナガ通りの中ほどに建てた。その教会があった場所はスネン三角
地帯北部の商店街の中であり、教会の姿はもはやない。

そのような配置を見る限り、シャステレインはガンクナガを自邸のプロトコル道路にし、
そこに教会を置いて自分の領地の中心地区にすることを考えたように思われる。


一方、プラザアトリウムからスネンラヤ通り沿いに北に向かって150メートルほど歩く
と、オランダ風の古い建物を容易に見出すことができる。この小さい建物の表にはピザハ
ットの看板がかかっているので、営業時間内ならだれでもそこに入ることができる。

この建物は19世紀にスネン地区華人を統率するレッナンチナ(Letnan Cina)のタン・ワ
ンセン(Tan Wang Seng)が住居として建てたものだ。レッナンチナは統領のカピテンチナ
を補佐して、各地区の華人社会を統率する役職である。

時代が下ってからは東インド植民地軍(KNIL)の慰安センターとして使われていた。
ピザハットがその建物を使う前は、ジャヤガスが事務所にしていたそうだ。

店内に入ると、作られた当時の壁や階段がそのまま残されているそうで、ピザを食べなが
ら百数十年もの時の流れにひたる気分も悪くあるまい。


シャステレインがフィンクに売却したあと、フィンクはモッスルに売り渡し、モッスルは
1761年にシャステレインの豪邸を自分好みの大邸宅に建替えた。こうしてフィラウエ
ルテフレーデンができあがる。

モッスルは後任者の第29代総督ペトルス・オルベルトス・ファン・デル・パッラ(Petrus 
Albertus van der Parra)に土地と大邸宅を売り渡した。パッラが買ったのは1767年と
記されているから、交代してすぐに売買が行われたのではなかったようだ。

バロック様式の二階建て大邸宅は、広大な庭園に抱かれ、豪壮な表門は今のスネンラヤ通
りに直接面し、裏には水泳プールや養魚池が設けられ、邸宅の周りはチリウン川と濠で囲
まれていた。

この大邸宅を最後に使った総督は第37代のヘルマン・ウイレム・ダンデルス(Herman 
Willem Daendels)だったが、かれは居所をウエルテフレーデンからバイテンゾルフ(ボゴ
ール)に移すにあたって、その大邸宅を取り壊すよう命じた。

その跡地に1819年、ウエルテフレーデン軍大病院が建てられ、それ以来そこから南の
プラパタン通りまでの地区は医学生があふれ、更に植民地軍兵士があふれるというインド
ネシアの激動の時代へと流れ込んで行ったのである。[ 完 ]