「ミナンカバウの旅(終)」(2018年04月27日)

2月15日
午前8〜10時: パガルユン王宮
パガルユン大王宮を訪れない西スマトラ州旅行は考えられない。パダン市からおよそ10
5キロ離れたバトゥサンカル市タンジュンマス郡にあるパガルユン大王宮は1804年に
焼け落ちたもののレプリカだ。
王宮建物内に展示されているのは、ミナンカバウ王国華やかりし時代の遺物が多い。大昔
から耐震建築だけはしっかりと行われてきたこの宮殿も、火事にはことのほか弱かった。
落雷や人間の過誤で焼け落ちたのは何度あったことだろうか。
三階建ての巨大な主殿と、その周囲に建てられたいくつかの建物の緑に包まれた周辺を散
策したあと、民族衣装を借りて記念写真を撮るひとびとも少なくない。

9〜14時: ベベッラドヒジャウ
「ブキッティンギを訪れなければ、ミナンカバウへ行ったことにならない」ということわ
ざの上を行くのが、「ブキッティンギを訪れなければ、まだ完璧なインドネシア人ではな
い」というセリフ。
パダンに次ぐ西スマトラ州第二の都市ブキッティンギは、マラピ(Marapi)山・シンガラン
(Singgalang)山・サゴ(Sago)山に囲まれた涼風の吹き渡る高原の地であり、植民地期以来
の長い歴史と豊かな文化を誇っている。
民族運動から独立宣言へというインドネシア建国の礎を築いたモハマッ・ハッタ、スタン
・シャッリル、ムハンマッ・ナシル、タン・マラカたちはブキッティンギに育った憂国の
士だった。

ブキッティンギのアイコンであるジャムガダンの塔を設計したのは、アガム県IVコト郡
ナガリコトガダンの建築家ヤシッ・アビディン別名アンク・アチッだった。1826年に
建てられた高さ26メートルの時計塔を訪れる観光客は、その広場を常ににぎやかな場所
にしている。

今日の昼食は名物ベベッラドヒジャウ(bebek lado hijau)にしよう。lado とはlada のミ
ナン語で、唐辛子を意味している。lada がコショウを意味していると思っているひとに
は迷惑な話だろうが、歴史の早い時期から存在したインド原産のコショウをlada だの
cabai だのと呼んだヌサンタラのひとびとは、ポルトガル人が南米から唐辛子を持ち込ん
できたとき、従来の辛い物を呼ぶ名称と同じものでそれを呼んだらしい。こうしていささ
かの混乱が避けようもなく起こり、今日まで続いている。

ブキッティンギ市と隣のアガム県の間には、有名な観光地シアノッ渓谷(Ngarai Sianok)
がある。そこに並ぶワルンではたいてい、このベベッラドヒジャウが売られている。シア
ノッ渓谷を見わたしながらベベッラドヒジャウに舌鼓をうちつつ、今回のミナンカバウの
旅の一幕を閉じることにしよう。[ 完 ]