「グヌンサハリ(8)」(2018年05月03日)

オランダ人は最初、アンチョル地区をzouteland(塩地)と呼んだ。1656年に建てら
れたアンチョル要塞も、最初はFort Zoutelande と記されている。

アンチョルという言葉はスンダ語に由来しているらしい。スンダ語でアンチョルとは海に
突き出した土地の意味だそうだ。カラパ(スンダクラパ)の東側がどうやら、海に向かっ
て湾曲していたのだろう。一方、ブタウィ史家のリドワン・サイディ氏はアンチョルの語
源を、サンスクリット語で水がたくさんあるという意味だと説明している。

この地区で、イスラム勢力が送り込んでくる軍勢とスンダ王国の軍勢が戦争したことがチ
ャリタパラヒヤガン(Carita Parahyangan)に記されている。激しい戦闘が、カラパ、今の
バンテン(Banten)であるタンジュンワハンテン、(Tanjung Wahanten)、そしてアンチョル
で展開されたそうだ。


アンチョル要塞が設けられたころ、カンプンバンダンから東へ向けてアンチョル要塞まで
の間は、耕作に適さなかったために家畜の放牧と牧草地として使われたようだが、アンチ
ョル川とマンガドゥア通りあたりに掘られた運河を一定間隔で距離を置いた南北方向の水
路でつなぎ、土地の整備だけはなされていたようだ。

ところがバタヴィア城市内での生活が不健康さを強め、コレラ、チフス、ジフテリア、痘
瘡などの流行病が何度も住民を襲い、おまけにマラリア汚染が住民の生命をきわめて儚い
ものにしたため、オランダ人はもっと南の明るく健康な土地への移住を開始する。

VOCの記録によれば、1733年から1738年にかけて、バタヴィア住民の病死者数
が激増した。ところが、全住民が分け隔てなく死の腕に抱きとめられたわけでなく、いく
つかの特徴が見出されたことが記されている。

ヨーロッパからバタヴィアへやってきた新参者たちは、最初の半年間に死を迎える者が5
割を超えた。生き延びた者たちも、その後の数年間は病弱で、健康から見放されているよ
うに見える者が多数を占めた。

ところが、その試練を乗り越えた者たちは、病死の確率が大きく低下した。それはつまり、
長い間バタヴィアで暮らしてきた者たちも、1733年ごろから始まった死をもたらす病
に対して十分な抵抗力を持っていたことを推測させてくれるものだ。

一年というサイクルを見てみると、病死者が激増したのは8月の乾季のピークと1〜2月
の雨季のピークに当たっており、また北海岸部に近付くほど、病死発生の確率が高まった。
1733年より前の時代には、そのような現象は見られなかったのだ。

もうひとつ面白い話が、当時のバタヴィア住民の書き残した記録や手紙の中に散見されて
いる。細菌学やウイルスの知識に無縁だった当時のひとびとは、自分たちが見聞した現象
から、何らかの因果関係を見出そうとした。その中に、病魔は深夜に人間を襲うというも
のがあった。[ 続く ]