「ジャカトラ通り(9)」(2018年05月24日)

エルベルフェルトの綴りは数種あって、ウィキペディアではErberveld、インドネシアの
諸文献ではErbelveld、あるいは古い文献の中にEberfeldも見られ、また碑文博物館に設置
されている布告の銘板にはElberveldと書かれており、何を真とすればよいのかわからない。

真は本人が主張する綴りのはずであり、バタヴィア上層部が作らせた碑文博物館の銘板が
それと一致させて書かれたかどうかは、かれらがピーテルをどのように扱ったかを見る限
り、最低限のリスペクトすら与えた印象が持てないことから、確信を抱くことができない
のである。

かれはヨーロッパ人社会との交流を嫌うようになり、プリブミ社会とのつながりを深めて
行った。ジャワ島のプリブミ社会がイスラムという文化面の絆を核の一つにしていること
から、本当にプリブミ社会に没入するのであればそれを避けて通ることはできない。

もともとアジア人である生母と養母から植え付けられたアジア式行動習慣や感覚に従って、
かれはプリブミたちと親しい関係を築いてきた。かれが父親から受け継いだヨーロッパ人
としての自分の一部は、バタヴィアのオランダ人が示した汚さ・残酷さが醜い物に変えて
しまった。醜悪な部分を振り捨てるならば、できた空白にアジア的なものが滔々と流れ込
んで行くはずだ。アジアにいるかぎり、その現象は容易に起こりうるのである。プリブミ
社会に全身を浸すことを選んだピーテルの「わたしはムスリムだ。」という宣言は、かれ
の周囲にいたプリブミたちに喝采で迎えられた。


VOCのオランダ人上層部は最初からプリブミを劣等視し、純血オランダ人(あるいはヨ
ーロッパ系白人)がプリブミ女性に産ませた子供をも劣等視した。その観念は何百年にも
わたって維持され、プリブミの母から生まれたオランダ人高官の息子は、可能な限り出生
の事情を濁した上、オランダ本国で高等教育を受けて、あたかも純血オランダ人のように
東インドにやってきて統治体制内の高官職に就くのを常識としたのだった。

ヨーロッパ人社会から離れているピーテルをバタヴィア市政上層部がどのような目で見て
いたのかは想像に余りあるだろう。わたしには、ピーテル・エルベルフェルト事件の本質
がそこにあるような気がしてならない。

プリブミ社会にのめり込んで行くピーテルに、世の中の注目が集まる。そしてピーテルの
攻撃的な性格が、プリブミ不平分子をマグネットのように吸い寄せる結果になった。
[ 続く ]