「南往き街道(7)」(2018年06月18日)

さて、1750年に別荘が完成してファン・イムホフ総督がそこを使い始めると、侍従や
執事から下働きの者たち、そして警備や連絡担当の者たちに至るまでが一団となって付き
従ったことは疑いがない。

別荘内の片隅に同居できるだけの資格や機能を持たないひとびとが、別荘の周辺に集落を
作ったことは想像に余りある。ましてやその後、歴代総督がその別荘を利用し、ついには
バタヴィアを去ってバイテンゾルフで執務する総督が出現するに及んでは、バタヴィアの
諸官庁がバイテンゾルフに出先を置かなければどうしようもなくなる状況に立ち至るわけ
だ。総督の職務や立場に関わる諸機能がバイテンゾルフ宮殿の北側に集まったのは、当然
のことだったにちがいない。南側は広大な植物園なのだから。

こうして自然発生的に総督宮殿の北側が政府機関やヨーロッパ人エリートの居住区になっ
ていく。一方、華人は中心部からあまり遠くない場所に集まって商業地区を形成し、プリ
ブミはそれらの間隙を埋めながら、更に農業地区に拡散するといったありさまがオランダ
人が開発したボゴールの町に展開されて行った。

オランダ人を主体にするヨーロッパ人地区は、現在のジュアンダ通り〜スディルマン将軍
(Jend. Sudirman)通り〜Aヤニ(Yani)通りやもっと北側のチワリギン(Ciwaringin)地区か
ら東方のタマンクンチャナ(Taman Kencana)に至るエリア、また植物園の周囲を包むエリ
アなどで、教会・病院・学校などの社会施設も充実していた。


もちろんヨーロッパ人の間でも官職や経済力の格差が居住エリアに反映され、上級者は大
通りに面した豪邸、中下級者はもっと狭い通りを奥に入った中小規模の家屋というような
生活様式が顔を覗かせていた。

華人は植物園の南方から植物園メインゲートに突き当たってくる今のスルヤクンチャナ通
り界隈を活動場所としてきたが、これはバイテンゾルフ市庁が行った方針によるものでも
ある。1845年7月6日に出されたバイテンゾルフ市長決定書には、ハンデルストラー
ト(Handelstraat)を華人の居住区とするという確定方針が記されていた。そのハンデルス
トラートが共和国独立後プルニアガアン(Perniagaan)通りに改名され、もっと後になって
現在のスルヤクンチャナ通りに名を変えている。

多分1845年7月の決定書が出るはるか以前から、華人はそこで商業活動を行っていた
にちがいない。そこをバタヴィアのようなチャイナタウンにしようとして、オランダ人は
バタヴィアやバンテン、更には遠くジャワの華人社会に働きかけた。バイテンゾルフのあ
ちこちに出現した華人商業スポット(職住一体地区)を一カ所にまとめることもその方針
に含められていたにちがいない。

華人の成功者たちは市の中心部からより離れたスルヤクンチャナ通り南部地区にヨーロッ
パ風の邸宅を建てて住んだ。[ 続く ]