「南往き街道(14)」(2018年06月27日) 1678年にVOCが建設したバタヴィア城市とメステルコルネリスを結ぶ幹線道路は、 高原の町バイテンゾルフの開発のために南へと伸ばされて行った。オランダ人はその街道 をドフローテザイダーウエフ(De Groote Zuiderweg)、つまり南往き街道と呼んだ。 この街道はメステルのすぐ南側にあるカンプンムラユ(Kampung Melayu)から更に南のチ ャワン(Cawang)、そしてチリリタン(Cililitan)を抜けてクラマッジャティ(Kramat Jati) に入り、グドン(Gedong)〜パサルボ(Pasar Rebo)〜チブブル(Cibubur)〜チマンギス(Ci- manggis)〜チュルッ(Curug)〜チビノン(Cibinong)〜クドゥンハラン(Kedunghalang)を 経てボゴール市へと、まっすぐに南下している。 今の道路名で言うなら、ジャティヌガラの南縁がカンプンムラユ(Kampung Melayu)地区 で、そこから道路はオティスタ(Otista)通りとなってチャワンに達し、チャワンからチリ リタンまではデウィサルティカ(Dewi Sartika)通りで、チリリタンを出てからボゴール街 道(Jl Raya Bogor)という名でボゴールに至るのである。 現在のボゴール市の中心部にボゴール宮殿とボゴール植物園があり、そのボゴール街道が 市の中心部を貫通して更に南へと通り抜けている事実は、ボゴールという町がどのように して作られてきたのかという由来と、この街道がいかにそのプロセスに重要な役割を果た してきたかということについて、赤裸々に物語る歴史の生き証人であるように思われてし かたがない。 ボゴール市中心部をなすボゴール宮殿と植物園にジャカルタから下ってくるその街道は植 物園の東縁を通る。一方、ボゴール宮殿の正面に北から下ってくる通りは別にあり、その 街道を北上して行くとデポッの町に達する。デポッからパサルミングを経て更にスポモ通 り〜サハルジョ通りを越え、マンガライからメンテン地区東南角につながっていくのだが、 この街道のクオリティはメステルから伸びて来るボゴール街道よりも低く、VOCが第一 級の街道として一貫的に造成した道路には見えない。 ファン・イムホフ総督のバイテンゾルフ別荘を目指してメステルから下ってくる街道が最 初、別荘正面玄関まで伸びて来るものであった可能性は否定できない。後の時代になって、 更に南に向けて街道を伸ばして行くに際し、バイテンゾルフ宮殿の邪魔になるのを避けて、 途中で枝分かれさせたという可能性がその帰結だ。枝分かれさせた地点はバタヴィア通り の端だろう。 逆の可能性はもちろんあるのだが、そうなると最初からチアウィ村を目指して立派な街道 を作り、植物園の南側から迂回してバイテンゾルフ別荘に向かうようなルートにするのは 考えにくいし、同じようにバタヴィア通りを街道から分岐させて総督別荘の正面まで引い て行くのも本末転倒の感がある。[ 続く ]