「南往き街道(16)」(2018年06月29日)

「南往き街道(16)」(2018年6月29日)
街道沿いは最初、人気のない寂しい場所が多かったようだが、徐々に住民が増えるように
なり、バタヴィアのVOC高官たちがランドハイス(英語でcountry house)を建てて休日に
家族連れで保養に行くようになっていく。持てる者たちのそのような活動が、サービスを
提供して金を得ようとする下層民を招き寄せるのは明白で、こうして街道脇に集落が作ら
れるようになっていった。

昔の南往き街道の様子は拙作「プンチャッ越えの道」
http://indojoho.ciao.jp/archives/library021.html
にも登場するので、併せてご参照いただけるにちがいない。


現在メステルという地名は東ジャカルタ市ジャティヌガラ郡の町名のひとつであるバリメ
ステル(Bali Mester)という名前に残されている。バリという言葉が付くのは、メステルに
カンプンバリがあったためだ。カンプンというのは同一種族同一文化のひとびとが集落を
作って住んだ場所を意味している。それは自然発生的と言うより、VOCが方針として行
ったものだった。

カンプンバリはバタヴィアに移り住んだバリ人の集落だ。バリ人は奴隷としてVOCに売
られたケースが大半だったらしい。1681年の人口調査でバタヴィア住民30,740
人中の奴隷は15,785人おり、また1683年の調査でバリ人はバタヴィアに14,
259人いたが、自由人は981人しかおらず、他はすべて奴隷だった。

1682〜83年にかけてのバンテン王国スルタン・アグン・ティルタヤサ(Sultan 
Ageng Tirtayasa)を破滅させるための戦争に関連してVOC軍の中で目覚ましい活躍を見
せたウントゥン・スロパティ(Untung Suropati)中尉率いるバリ人部隊は、隊長以下全員が
奴隷身分だった。この部隊の反抗と脱走は二重の意味でVOCの体面をずたずたにし、か
れらを滅ぼさなければ現行制度の維持に示しがつかなくなってしまう状況に陥るのである。


当時のバリはたくさんの王国に分裂して戦争し合っていた。兵士が捕虜になれば、奴隷に
された。領民の生活も決して楽なものでなく、借金が返済できなければ奴隷にされて売り
飛ばされた。「身体で払ってもらおう。」が常識だった時代だ。おまけに王も自国の領民
の生殺与奪の権を握り、簡単に領民を奴隷にして売り飛ばした。金が必要になったブレレ
ン王は1708年に750人の奴隷を船に乗せてバタヴィアのVOCに売りに来た。労働
力や兵士を必要としていたVOCはそれを二つ返事で受け入れていた。

そのため、バリ人は2世紀に渡ってバタヴィア住民の中の最多数種族となっていたが、バ
タヴィアで諸種族と混交した結果、ブタウィ人ブタウィ文化の一要素となって溶け込んで
行ったようだ。ブタウィ文化とバリ文化の関連性は意外に大きい。バリ人がよく使う動詞
接尾辞の-inがブタウィ語に取り込まれたのもその一例だろう。今や-inはバハサガウルと
なってヌサンタラで全国展開されている。[ 続く ]