「南往き街道(44)」(2018年08月08日)

1770年代にヨハネス・ラッハが描いたスケッチ画のひとつに、馬車や牛車が集まって
いる姿を写したイェマンスランドのカントリーハウスの様子を見ることができる。ボゴー
ル街道はチマンギス郡の中央を南北に貫通しており、イェマンスのカントリーハウスがそ
のころ、南往き街道を往復する交通機関のための宿駅サービスを商売にしていたことは疑
いあるまい。

1808年にダンデルス総督が作らせた大郵便道路 (De Grote Postweg)にも、郵便物送
受のための中継ポストが設けられた。イェマンスのカントリーハウスは当然その伝統をも
ってポストのひとつに組み込まれたのだが、1842年に出されたバタヴィア〜バイテン
ゾルフ間中継ポストのリストにはイェマンスの名前が見られず、チマンギスという名に替
わっている。
第1ポスト ビダラチナ (Bidara Tjina) 
第2ポスト タンジュン (Tandjoeng) バタヴィアから15パアル
第3ポスト チマンギス (Tjimanggis) 
第4ポスト チビノン (Tjibinong) バタヴィアから28パアル
第5ポスト チルアル (Tjiloear) バタヴィアから34パアル
第6ポスト バイテンゾルフ (Buitenzorg) バタヴィアから39パアル
というのがそのリストだ。

イェマンスランドからチマンギスランドに替わったときの経緯はよく分からない。地主が
替わり、先代の地主の名前でその土地を呼ぶことをよしとしないひとびとが呼称を変えた
のかもしれない。少なくとも19世紀に入るころ、イェマンス一族は姿を消していた可能
性が高いように思われる。


ところで、2018年に入ってから、チマンギスの家(Rumah Cimanggis)と呼ばれている
カントリーハウスに一躍脚光が当たった。チマンギス郡スッマジャヤ(Sukmajaya)にある
国営ラジオ局RRIの送信施設用地の中に含まれているかつてカントリーハウスだった廃
屋をインドネシア国際イスラム教大学建設のために取り壊す計画が世に流れて、歴史保存
を叫ぶひとびとが反対の声を挙げたのがその発端だ。

資料によれば、そのカントリーハウスは1771年から1775年にかけて建設されたと
なっているが、1778年に完成したという記事もある。このカントリーハウスは新しく
建てられたのだから、イェマンスランド時代のものではない。

施主はファン・デル・パッラ(Petrus Albertus Van der Parra)元第29代総督であり、二
番目の妻アドリアナ・ヨハナ・バーケ(Adrianna Johanna Bake) を住まわせるために建て
たそうだ。ヨハナはそのカントリーハウスからおよそ1キロ離れた場所に市場を設けた。
今その市場はパサルパル(Pasar Pal)と呼ばれている。[ 続く ]