「Q(前)」(2018年10月03日) ライター: 語義研究家、サムスディン・ブルリアン ソース: 2010年9月22日付けコンパス紙 "Q" Qは悪くもないのに捨てられた。辞書の中でqで始まる単語は小指の指先で数えられるく らいだ。外来語にあったqの文字はほとんどすべてkに変えられた。この差別を説明でき る基本的な理由が、たとえあったとしても、たいへん見出しにくい。qの存在理由は明白 だ。それはアルファベットの列の中に堂々と並んでいるのだから。文法的にqを蔑視する 理由が存在するのだろうか?あったとしても、その説の主張者はまだあまりそれを世間に 知ろ示していない。それともこれは舌の問題だろうか?例えば昔、fの文字がpに変えら れることが頻発した。理由はインドネシア人の舌にとってfの音の発音が困難だからとい うものだった。今はもう違う。若者たちは容易にfの音を口ずさんでいる。しかしその古 い理由はqとkのケースに当てはまらない。そのふたつの音はインドネシア人の耳にも舌 にもまったく同一のものとして受け取られているのだから。 だったら、昔からある単語を変えなければならないのか?いや、そんなことはない。誠実 な人間になろうじゃないか。昔のものもかわいがってやろう。kualitasもkuantitasもその ままでいい。もしだれかがqualitasやquantitasに意地を張っても、一向にかまわない。せ いぜい国語警察が腹を立てるくらいのものだ。それでさえ、何も問題ない。怒りは根源的 な性向であり、本性なのだ。怒りがなくなれば、国語警察は幸福になれない。望むべきは 現在ただいまから、外来語の原語にqの文字があれば、その言葉のプロモーターはそれを そのままにしておいていただきたい。1980年代に言語界上層部が外来語のfをpに換 えるのを徹底的に拒否することに血道をあげたのと同じだ。そうすれば2020年代を、 優勢なkに対するqの抵抗の時代と後世は談じるだろう。これは単なる提案だ。国語警察 はすぐに警棒を振り回すのをやめるように。 重要なことだけでよい。重要でなかったら、このコラムに出てくることはない。いくつか の単語に行き残されたqはコンセプトとロジックの純粋化の助けになるだろうし、その結 果インドネシア民族の思考力を研磨し深化させることになる。エヘン。 たとえばetiqetだ。etikaと大違いに見えるのは明らかだ。このコラムをまだ知らなかった 素朴なひとびとは、唖然とするだろう。「へえ、本当に違ってるぞ。」意味上の関係はな い。語源はまったく離れている。今や民衆は完全に悟っている(はずだ)。etiqetのある 高官がまったくetikaのない人間であったり、またその逆も真であるということを。 [ 続く ]