「バタヴィア号難破と殺戮の合理性(終)」(2018年10月19日) 現地の整理を完全に終えてから、全員がサアルダム号でバタヴィアに向かった。バタヴィ アに到着したのは1629年12月5日であり、連行された16人の叛乱者は、マタラム 軍進攻の余韻冷めやらぬバタヴィアで裁かれ、処刑された。 バタヴィア号の難破と殺戮の狂気の物語はオランダ本国と世界中のオランダ植民地で人口 に膾炙した。ペルサートの著作「バタヴィア船の不運な航海(Ongeluckige Vojagie van 't Schip Batavia, Nae de Oost-Indien)」が1647年に世に出されると、その書物は8回 も版を重ねた。 叛乱者たちでなくとも、沈没船財宝に関心を抱く人間は歳月を越えて出没する。バタヴィ ア号を見つけて25万枚の銀貨を・・・とよだれを流す人間には事欠かない。しかしかれ らによって沈没現場が確定されることは一度もなかった。 オーストラリア人ジャーナリストで作家でもあるヘンリエッタ・ドレイク=ブロックマン が1950年代からバタヴィア号の歴史に関心を抱いてオランダ人ペルサートの著作やバ タヴィア号の航海記録を追い始め、物語を描き上げるかたわら、史実を検証して沈没現場 の実態をそこに反映させるべく探査を行い、探査チームはついに1962年、バタヴィア 号の遺骸を発見したのである。 だが沈没船の財宝を引き上げるには、それからまた十数年の歳月を必要とした。そして最 終的にポルチコを含めて1万5千点を超える史的遺物が保全された。今それらの遺物は西 オーストラリア博物館に保管されている。 人口4万人のジェラルトンの町に、バタヴィア公園がある。公園の中央には航海用アスト ロラーベのレプリカが設置され、公園の周囲にはオーストラリア西部における航海史の諸 断片を知ることのできる表示が掲げられている。それを見るなら、実に多くのヨーロッパ 船がその海域で生涯を閉じたことに驚かされるだろう。 バタヴィア公園はあの悲劇を生んだバタヴィア号の鎮魂のための施設だ。バタヴィアの名 前はジェラルトンの市民にとって、馴染み深いものになっている。商店の屋号にその名を 使っているものも少なくない。かれらにとってバタヴィアは、既にかれらのものになって いるにちがいあるまい。[ 完 ]