「インドネシア語生誕記(後)」(2018年11月06日)

この青年の誓いが第二回青年会議で声明されたのも、1926年に行われた第一回会議の
成果だったのである。第一回会議のあと、5月2日に第一回青年会議評価委員会の会議が
開かれた。次に開催する会議で青年の誓い(ikrar pemoeda)の声明を謳いあげるためにそ
の内容を検討することが評価委員会会議の目的だった。

ムハンマッ・ヤミンが声明の原案を用意していた。次のような文章だ。
Kami poetra-poetri Indonesia mengakoe bertoempah darah jang satoe, tanah Indonesia. 
Kami poetra-poetri Indonesia mengakoe berbangsa jang satoe, bangsa Indonesia. 
Kami poetra-poetri Indonesia mendjoendjoeng bahasa persatoean, bahasa Melajoe.

最初の二項は異論がなかったが、第三項で出席者の意見が分かれた。議長のモハマッ・タ
ブラニもそのひとり。民族統一の意志を一本化させようとしているときに地方語の名前が
出てくるのはおかしい、と議長は主張した。「言葉もインドネシア語という名称に統一す
るべきではないか。」

「今、存在しているのはムラユ語だ。インドネシア語という言語は影も形もない。」ヤミ
ンの言葉にタブラニは考え込んでしまった。


文化と言語におけるヤミンの蘊蓄の深さは定評がある。だがタブラニは自分の政治見解に
従った。会議出席者の間で激論が続き、ジャマルディンはヤミン案を推奨し、サヌシ・パ
ネはタブラニに賛成した。その問題は決着されないまま、第二回会議まで持ち越された。

最終的にヤミンはより大局的な見地から自分の考えを見直したようだ。その声明内容は第
二回青年会議実行委員会で検討されることなく、ヤミンが議長のスゴンド・ジョヨプスピ
トの承認を得て総会にはかり、全会一致の賛成を得た。それが上述の青年の誓いの文言だ。
そんなプロセスがあったことを、タブラニは自伝の中に書きのこしている。

1926年5月2日はインドネシア語にとって生誕記念日なのだ。タブラニの意志がその
とき働かなければ、インドネシア民族の統一言語はムラユ語という名称になっていたかも
しれない。1928年10月28日は先に生まれていたインドネシア語という名称を民族
に向けて告知するお披露目の式典だったのである。インドネシア大学言語学教授だったハ
リムルティ・クリダラクサナ教授はそう述べている。[ 完 ]