「植民地言語官僚」(2018年11月07日) ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ ソース: 2011年12月9日付けコンパス紙 "Hikayat Pegawai Bahasa" これは言語開発育成庁の社員についての話でなく、ヌサンタラの諸言語に蘊蓄を傾けたオ ランダ人公務員研究者たちの話であって、過去の歴史を軽くなぞるためのものだ。クール ハアス(W Ph Coolhaas)の論文「Van koloniale geschiedenis en geschiedenis van Indo- nesie, van historici en taalambtenaren」に述べられているように、かれらは言語官僚 (taal-ambtenaar)と呼ばれた。かれら言語分野の官僚の中には、文献学専門家もいた。 かれらはインド学とインドネシアの文化と言語に関する諸学をオランダで学んでから東イ ンド植民地政庁に奉職した。その当時、インド学はオランダのふたつの大学でのみ教えら れていた。レイデン大学とユトレヒト大学がそのふたつで、それに次いで国立言語地理民 族学院が1851年に設けられた。この学院は現存している。元々この機関は植民地政策 を実施する植民地政庁のシンクタンクを意図して作られた。 言語官僚が他の植民地政庁官吏と同じように、植民地体制のツールという立場にあったと いう先入観は生じて当然だ。とはいえインドネシア大学(Universiteit van Indonesie)の クールハアス元教授はかれらを、インドネシア人の文化をすべて包み込むまでに言語研究 の成果をものした、勇気と自由を持った官僚だったと評価した。かれらがヌサンタラのさ まざまな言語を研究したために、文化のより広範な諸相が明らかにされたのである。 インドネシアでその研究成果が知られているひとびとの中には、オランダ人が悪人物語と 呼んだパララトンやナガラクルタガマなどの古典文学文献研究者JLAブランデス(Bran- des)がいる。サンスクリット語専門家Hケルン(Kern)は言語研究を通してムラユ〜ポリネ シア民族の発祥の地を探った。ジャワ文学の世界からCCベルフ(Berg)はジャワの歴史を その中に再構成した。植民地体制下にあったその時代にかれらの抱いた勇気の基盤は、ヌ サンタラの文化と歴史を理解するための源泉として、外来支配者が遺した歴史記録よりも、 プリブミが持っているソースを重視するという認識の上に置かれていた。 かれらは支配権力に対して批判的でもあった。伝道者のひとりヘルマン・ファン・デル・ テューク(Herman van der Tuuk)の例は興味深い。ロブ・ニューウェンハイス(Rob Nieu- wenhuys)はかれについて、「人間としてのかれは粗野で、遺恨を忘れず、尊敬に値する ものでないのだが、強制栽培制度に反対したモラリストで正直者だった。」と書いている。 1824年にマラッカで生まれ、植民地で言語通の第一世代として知られた。後にバタッ (Batak)地方の副監督者となり、トバ語辞典を編纂した。バタッ人はかれをトアン・デル ティッ(Toean Dertik)と呼んだ。 植民地で働いた学者たちはまだまだたくさんいた。文学ではロールダ(Roorda)、考古学は クロム(Krom)、経済学のブーケ(Boeke)、史学ファン・リュアー(Van Leur)、慣習法テル ・ハアル(Ter Haar)、イスラム学スノーク・フルフロニエ(Snouck Hurgronje)たちだ。し かしその数は植民地主義の衰退に伴って減少していった。おまけに、クールハアスによれ ば、言語官僚の職は妥当な生活を保証しないものになってしまったのが一因でもあったそ うだ。