「言語独立」(2018年11月09日) ライター: インドネシア大学文化科学部教官、カシヤント・サストロディノモ ソース: 2009年8月14日付けコンパス紙 "Merdeka Berbahasa" 「東南アジア:人種・文化・国家」と題する著作の中でガイ・ハンター氏は、ポストコロ ニアル期の東南アジアにおける言語面の複雑な問題を描き出した。その地域では三種類の 言語が使われた。地元諸種族の母語、植民地宗主国の国際語、移住者たちのマイナー言語 がそれだ。各国は植民地制度が瓦解した後、国語の制定に苦労した。 インドネシアはその問題の基本部分から免れていた。1945年8月17日の民族国家独 立で、インドネシア語も一緒に独立したのである。1945年憲法にはインドネシア語を 国語とすることが定められている。それどころか、国語となるインドネシア語の種はずっ と以前から蒔かれていたのだ。1928年の青年の誓いで「インドネシア語という統一言 語を奉持する」との声明が発せられた。 旧宗主国の言葉であるオランダ語に対する厳格な排斥姿勢も、言語独立を証明するものだ った。しかしながら、われらが建国の父たちもオランダ語の単語を受容するのに、決して 不器用でなかった。独立宣言文の冒頭に語られたプロクラマシProklamasiはオランダ語に 由来する。独立の日付がごちゃごちゃしたのも、特に問題ではない。8月17日は西暦で あり、年は昭和2005年だった。おまけに独立宣言者たちの名前も合成品だったのだか ら。スカルノはサンスクリット語/ジャワ語、モハンマッ・ハッタはアラブ語/ミナン語 だ。 他の諸国はもちろん、複雑な問題を抱えていた。1948年の独立以来、ビルマ人はビル マ語を国語にした結果、全種族の三分の一が疎外されてしまった。カレン・チン・カチン ・シャン・モンクメール族たちだ。フランスから1953年に独立したカンボジャはクメ ール語常用者が9割を占めているものの、フランス語から離れることができずにそれを国 語にしている。 ベトナムは言語的に分裂した。政府は英語、軍隊とサイゴンの大学は米語、ダラトのカソ リック系大学ではフランス語。国民の85%は日常、ベトナム語・モンクメール語・中国 語を使い、全員に理解される共通語は存在しない。フィリピンでは、タガログ・セブアノ ・イロカノ・ヒリガイノンという四大種族語の競争だ。国語に指定されたとはいえ、タガ ログ語はその種族の中でしか使われていない。そのために非タガログ族の生徒は他人との 意思疎通のために、学校でタガログ語・英語・スペイン語を同時に学ばなければならない。 マラヤの地ではムラユ語がマジョリティであるにもかかわらず、英語・中国語・多少のイ ンド語も習得しなければならない。それどころか1960年代初期の、シンガポールがま だマレーシアの一部だった時代、英語あるいは中国語を教育言語に使う学校数はムラユ語 のそれを圧倒的にしのいでいた。1964年にクアンタンのスルタンは公務員にムラユ語 の使用を命じる規則を定めたが、それに追随する他の州はなかった。 タイだけが国語の制定をスムースに行えたのは、植民地にならなかったことに加えて国民 が比較的均質な社会を形成していたからだろう。しかしマレーシアとの国境地帯にあるク ラ地峡にはムラユ人ムスリム集団が定住しているため、タイ側の官憲が住民とのコミュニ ケーションのためにムラユ語を学ぶことを強いられている。