「インドネシアの名の由来(前)」(2018年11月12日)

ライター: 翻訳家、デポッ在住、クサラ・スバギヨ・トゥル
ソース: 2003年10月4日付けコンパス紙 "Indonesia Perlu Nama Baru?"

インドネシア人は英雄を自認するのが好きだ。英雄というのはものすごい人物で、尊敬さ
れ、見上げられるのだから、それも当然だろう。インドネシア人は自分をそのように見ら
れたいのだ。インドネシア語pahlawan(英雄)という言葉自体がpahlaつまりpahala
(善報)を得た人間を意味しているのだ。別の語形がPahleviだ。ホメイニに率いられた
イラン革命で1979年に転覆したペルシャの王朝がその名前だった。

昔、インドネシアについての話は大きく・広く・稠密で豊かなものがその内容だった。だ
から東インドソサエティIndische Vereenigingは1908年にインドネシアソサエティIn-
donesische Vereenigingと改称して、インドネシアという語を政治的な意味で最初に使用
した団体であることを主張した。そのときの統率者はヘルマン・カルトウィサストロであ
り、かれは後に世の記憶から抹消されることになる。

インドネシア共産党Partai Komunis Indonesiaは1924年にインドネシアの名を冠した
最初の政党になったと主張したことがある。1920年5月23日以来、かれらはPerse-
rikatan Kommunist Hindiaを名乗っていたのだ。最初に名前をつけただけで、まるでもう
英雄視されているみたいだ。

ポルトガル人船乗りマノエル・ゴジーノ・ジ・エレジャ(Manoel Godinho de Eredia)が作
った地図にはマラヤ群島を指してLuca-antaraあるいはNuca-antaraと書かれた文字が見
える。東インド諸島にインドネシアの名称を使うことを最初に提案したのは、イギリス人
でペナン在住の人類学者ジェームス・リチャードソン・ローガンだった。その提案は18
50年のThe journal of the Indian Archipelago and Eastern Asiaに収められたかれの
論文「The ethnology of the Indian Archipelago : embracing enquiries into the 
continental relations of the Indo-Pacific islanders」に述べられている。ドイツ人
アドルフ・バスティアン(Adolf Bastian)は1884年に「Indonesien oder die Inseln 
des Malayschen Archipels」と題する著作を発表して、インド洋と太平洋の一帯で類似の
慣習法が使われていることを指摘した。[ 続く ]