「ブカシのグドゥンジュアン」(2018年12月31日)

ジャカルタのグドゥンジュアン45(Gedung Joang 闘争館)とは別に、ブカシにもグドゥ
ンジュアンがある。国鉄コミュータライン電車のタンブン(Tambun)駅のすぐ近く(数百
メートルの距離)だから、都内からはブカシ線でチカラン方面まで行くのが便利だろう。

タンブンのグドゥンジュアンは1910年に華人地主が建ててそこに住んだ。つまり元は
領主様のランドハイスだったということだ。メステルコルネリス(今のジャティヌガラ)
の東側からブカシ一帯、更にカラワンまでの広大な土地を私有地として領有していたそう
で、領主として地元民の上に君臨した華人が贅を尽くして建てた宮殿がどのようなもので
あったのか、当時の殿様がどのような暮らしをしていたのかを覗いてみるのも貴重な体験
になることだろう。

仮設的に建てられたワルンが敷地の周辺を埋め尽くしている中にそびえる二階建ての豪壮
な建物は、グドン(お館)と呼ばれるにふさわしいものだった過去の栄光を垣間見せてく
れる。幅広く丈の高い扉枠や窓枠そして露出している木部は黒く塗られて白亜の壁に鋭い
コントラストを示し、そのオランダ様式に加えて扉板や窓あるいは屋根に中国様式が取り
入れられている。屋根の上にはガラスで四周が囲まれた展望台があり、領主として私有地
の状況を観察するために望遠鏡を持ってそこに立った地主の姿が目に浮かぶようだ。

屋内に入ると角型文様の分厚い木製パネルが一メートルの高さで壁を覆っている。床の大
部分は薄茶色の花模様を描いた床タイルが昔のまま残されている。階段は大理石が敷き詰
められ、磨けば即座に輝き出すにちがいない。

しかし華人の私有地地主がそこに住んだのは1930年までで、それ以後はオランダ植民
地政庁が地域行政のためにその館を使うようになる。地区行政長官は私有地地主と似たよ
うなことを行っていたにちがいない。

1945年から1949年までの独立闘争期にブカシはAFNEI軍が掌握したジャカル
タに対する最前線となり、その期間中この地は特別の役割を担うことになった。グドゥン
ジュアンはそんな独立の英雄たちの根拠地にされ、かれらはそこに地区司令部を置いた。
グドゥンジュアンの名はその事実に由来している。スカルノ初代共和国大統領も、慰問の
ためにその司令部を訪れている。

しかし1949年のデンハーグ協定でインドネシアの主権が承認されると、地区司令部は
解散し、そこは空き家になった。最初は国鉄タンブン駅までをも含めた広大な敷地を持つ
ランドハイスに移住者の波が徐々に押し寄せて、民衆の住宅が広がって行った。今では、
母屋と四つの離れ屋を残すばかりになっている。

ブカシ県庁は2013年に一部の部署をここの離れ屋に移して使い始めた。母屋は201
7年に屋根の修理と壁や木部の塗装などが行われたが、空き家状態は続いており、またメ
ンテナンス担当者の常駐もなされていない。地元民有志がその役割を担っているありさま
だ。地元有志や有識者たちは離れ屋のひとつに昔の写真や新聞記事を展示して博物館にし
ている。

ブカシ市内の国鉄ブカシ駅から2キロほど離れたジュアンダ通りにも、グドンパパッ(Ge-
dong Papak)と呼ばれる華人地主の屋敷跡が見つかっている。こちらもオランダ風のお館
で、独立闘争期には軍事司令部として使われた。主権承認後はブカシ県令の公邸として使
われ、ブカシ市がブカシ県から分離してからはブカシ市長がそこを使った。今、この建物
はムソラ(礼拝所)として使われている。

ブカシ駅からグドンパパッへは、ブカシ駅からトランスパトリオッ(TransPatriot)バスに
乗ればよい。グドンパパッの前がバス停になっている。