「英語耽溺症と反発の戯画」(2019年03月15日)

国会総会の場でスハルト大統領は、われわれ全国民は善く正しいインドネシア語を使うよ
うにしなければならないと訴えた。スーパーマーケット、フードステーション、ユースセ
ンター、ショッピングセンターなどの外国語を使うのでなく、インドネシア語の名称や用
語を使うように国民に勧めたのである。

これは1974年1月9日のコンパス紙に掲載された記事の一部だ。「ある民族の人間を
知ろうと思うなら、その者の作法と話し方を見るがよい」という一節を、アリ・ハジ王 
(1808-1873)は1847年に著わしたGurindam Dua Belasの第五章に記している。言葉は
民族の本性を示すものなのだ。

ムラユ語文法の基礎を築いたアリ・ハジ王はウラマであり、歴史家で文学者でもあった。
その標準ムラユ語がインドネシア語の土台になった。1928年10月28日に全国各地
の青年団体が集まったコングレスの中で、奉持されるべきものとしてのインドネシア語が
誓われたのである。


言語学者ジェームズ・コリンズはムラユ語が英語と同じ16世紀に現代化の時期に入った
と記している。それを示すパラメータはいくつもある。

その時期に英語もムラユ語も、大量の外来語、特に学術分野におけるもの、を受け入れて
語彙を増やした。英語はラテン語から主に取り入れたが、ムラユ語はアラブ語源の語彙に
よって豊かさを増した。

その時代、たくさんの外国語文学、主にフランス語やラテン語で書かれたもの、が英語に
翻訳された。ムラユ語も同様で、アラブ語・ペルシャ語・ヒンディ語・ポルトガル語の文
芸作品がムラユ語に翻訳されている。

他の特徴としてコリンズは、英語の綴り方の標準化が進められて、それが現在の標準英語
に結実して行ったことをあげている。モダン言語への道を歩み始めたムラユ語にも同じこ
とが起こった。

モダン言語としての帰結においてインドネシア語は、外国語にオープンでなければならな
い。経済・法曹・政治・テクノロジー等々の諸分野における急激な発展は多くの新しい外
国語を生み出している。グローバリゼーション時代が外国語の浸透を防ぎきれないものに
しているのだ。

インドネシア語使用者がインドネシア語に誇りを抱き、インドネシア語を民族統一のため
の言語として奉持するなら、インドネシア語はインドネシア民族の本性を映し出し続ける
ことだろう。