「ごちゃ混ぜ語」(2019年03月18日)

ライター: 小説家、ヨグヤカルタ在住、アニンディタ S タイフ
ソース: 2016年12月24日付けコンパス紙 "Bahasa Apa Namanya"

レフォルマシ時代に入って以来、かつて考えも及ばなかったITの進歩に支えられた急激
な現代化はインドネシアの大都市に莫大なミドルクラスを生んだ。国際化世代となったか
れらは、ヨーロッパや米国などを主体に外国に由来するありとあらゆるものごとを生活規
範に取り入れた。衣服の選択や着方、家の整え方、ホリデーの場所や過ごし方、果ては食
の嗜好に至るまで。日常会話の中に英単語を散りばめることすら、臆さない。子供たちは
自分の母親をMom、父親をDadと呼ぶことに慣れ親しみ、毎朝Good morning!というあい
さつを欠かさない。

欧米派とは違って、中東を羅針盤の針にするミドルクラスも出現した。かれらは中東で日
常生活言語になっているアラブ語を第二言語に取り入れた。こうしてアラブ語が英語の対
抗馬となって登場してくる。学校でも教えられるほかに、日常生活言語にも(現実生活と
共にバーチャル世界でも)アラブ単語が混じり込んできた。こうして自分の母親をUmmi、
父親をAbbiと呼ぶ子供たちが誕生した。

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein)は言語を、道具と同じよう
なものだと評した。道具としての言語は数え切れないほどたくさんの役割を担うことがで
きる。機能に関しては言語使用者がその目的として望むことがら次第だ。だからバックグ
ラウンドの異なる言語使用者の間に、同一語彙に対する異なる理解が生じることになる。

外国語彙の機能のひとつは、コミュニケーションのためのみならず、言語使用者の社会階
層を労働者や農民のような他の言語使用者の階層から区別することでもある。自分の社会
階層を示すツールとして外国語彙を頻繁にインドネシア語文の中に混ぜて使う者は、時代
を先取りしている人間という評価がますます高まる。


現在トレンドの波に乗っているのは英語とアラブ語だ。母語と非母語(英語やアラブ語)
の区別がつけられない子供たちは、意図しないままそれらをごちゃ混ぜにして使う。
「Ummi, aku mau banana.」という文が子供の口から語られたとき、大人は可愛くて楽し
いという印象を抱くだろう。しかしその子がそのまま成長して大人になったら、どうなる
だろうか?インドネシア人が使うそのような言葉をインドネシア語と認定することができ
るのだろうか?

今の問題は、現在起こっている言語現象を通して外国語がインドネシア語を侵食し続ける
なら、インドネシア語はいつまで持ちこたえることができるだろうかという疑問だ。毎日
十個のインドネシア語彙が十個の外国語彙に取り替えられて行くなら、十年後にどのよう
な状態になっているかは想像がつくにちがいない。ましてや、ますますたくさんの国民が
現代化の影響を受けて、伝達語機能を外国語に委ねて行くようになるならば。

今現在、たいていの国民はインドネシア語と外国語の区別、母語と第二言語の違いを弁別
することができる。しかし子供のころからさまざまな国の言葉をごちゃ混ぜにした、何と
呼んでよいのかわからない言語を使って育った未来の世代が大人になったとき、事態は大
きく変わっているにちがいない。

ひょっとしたら、「Damn, ana cinta Indonesia!」が愛国的インドネシア青年たちの合言
葉になる日が来るかもしれないのだ。そんな日が来る前に、インドネシア語が長寿で過ご
せるように天に祈りを捧げたい。青年の誓いの中身がごちゃ混ぜ語に取って代わられて崩
れ去ってしまうことのないように。