「スペイ騒乱(前)」(2019年04月08日)

スペイとはsepehiと綴り、シポイ(sepoyはヒンディ語から英語に取り込まれた)を指し
ている。シポイの方が原音に忠実に思われるので、セポイと書かない。

シポイの語源はペルシャ語にさかのぼり、ムガール帝国の歩兵、あるいはオスマン帝国の
騎兵がsipahiと呼ばれていたことにつながっていく。ジャワ人がsepehiと綴ったのは、決
して英語の聞き取り間違いではなかったということだろう。sipahiという言葉の/a/の文
字はアの口の形をしてオの音を出す発音なので、ひとによってシパヒと聞こえる場合もあ
れば、シポヒと聞こえるケースもある。


スペイ騒乱は1812年6月19〜20日にヨグヤカルタ王宮をターゲットにして起こっ
た。トーマス・スタンフォード・ラフルズを実戦部隊指揮官として蘭領東インドに進攻し
てきたイギリス軍は、1811年8月にバタヴィア郊外のメステルコルネリスに拠ったフ
ランス=オランダ軍を潰滅させてジャワ島支配の鍵を握る。メステルから逃亡した敗残兵
の掃討を終えて治安を回復させたイギリス軍は、オランダ時代のジャワ島行政を引き継ぐ
べく体制を整えて行ったが、オランダが敗れたことを幸い、その隙にジャワ島内の王国が
蠢動を開始するのである。要は、第二次大戦直後と似たような状況が出現したわけだ。

ダンデルス総督は1810年12月に強硬な反オランダ勢力の首魁であるハムンクブウォ
ノ二世を王位から追放して、宥和派で強調的な息子のハムンクブウォノ三世を王位に据え
ていたが、オランダがイギリスに敗北するのを見て取ると、二世はすぐに王位に返り咲い
た。

絶対王権の信奉者で好戦的なハムンクブウォノ二世は王位に復帰するや否や、先の王位か
らの追放の際に自分の側に着かなかった者たちへの血塗られた粛清を開始する。ハムンク
ブウォノ三世も、父王の頭の片隅に粛清ターゲットとして名前が刻まれていたらしい。

ラフルズ政府が公式にヨグヤ王宮と折衝を開始したのは1811年12月。オランダがヨ
グヤカルタに対して振るっていた支配権をイギリスが継承するというラフルズ政府の表明
に対し、ハムンクブウォノ二世は「認めない」という拒否で応じた。[ 続く ]