「カッドブロ」(2019年05月29日)

南スラウェシ州ゴワ県バロンボン郡タマニュレン村タマッラッラン部落は州都マカッサル
の街から10キロほどしか離れていない。この部落の創設記念日が来ると、部落民は全員
がアカッドブロakaddo buloを行って記念日を祝う。アカッドブロとはカッドブロkaddo 
buloを作って食べることを意味している。

カッドブロとはマカッサル語で竹の食べ物という意味だ。もちろん竹を食べるのでなく、
もち米とココナツミルクを混ぜてバナナの葉で包み、それを竹の節に入れて焼く調理法を
指している。インドネシアの各地にあって、標準語としてルマンlemangと呼ばれている
食べ物がそれだ。

焼き方は真ん中に木やヤシ殻で火をおこし、中身の入った40センチほどの竹筒を立てか
けて3時間あまり焼く。竹筒をほんの少し傾けた直立状態で焼くための支え木が使われる
のは言うまでもない。3時間あまりの間、火がまんべんなく竹筒を焙るように、ときどき
筒を回転させなければならない。


部落民のひとりはその日、カッドブロの竹筒を百本用意した。インドネシアで祭礼という
のは、親類縁者友人知人が互いに相手の家を訪問し合い、親交を深め、物語し合って情報
交換を行い、友好の輪を広げて行くことをその機能に持っている。

家族全員が祝いのカッドブロを味わい、やってくる種々雑多の客人に振舞うために百本く
らい作るのは当然のことだ。「知らないひとが来ても、祝いを述べて一緒に祝祭を楽しも
うとするなら、決して差別はしない。上がってもらって、必ずアカッドブロをすることに
なる。」


部落の郷土史家はアカッドブロの伝統について、ゴワ王国第9代の王で1510年から1
546年まで統治したイ・マタンレ・カラエン・マグントゥギ・トゥマパリシ・カロンナ
I Matanre Karaeng Manguntungi Tumaparisi Kalonnaまで遡ることができる、と語る。
それはロンタラッビランLontara' Bilangと呼ばれる王家の書に記されている。

王は1525年にソンバオプSomba Opu要塞の建設を命じ、建設地の周辺にある諸部落
に対して、建設労働者に食べ物を提供するよう呼びかけた。タマッラッラン部落はソンバ
オプから1キロほど離れた場所にあり、王の要請を受けて協力するにふさわしい位置にあ
ったのは明白だ。そのときに選択されたのがカッドブロなのである。カッドブロは作って
から二三日は日持ちがするので、適切であると見られたにちがいない。

続いてゴワ王国第十代の王で、1546年から1565年まで統治したイ・マンリワガウ
・ダエン・ボント・カラエン・ラキウン・トゥニパランガ・ウラウェンI Manriwagau 
Daeng Bonto Karaeng Lakiung Tunipalangga Ulawengもソンバオプから遠くない場所に
パナックカンPanakkukangとアナッゴワAnak Gowaの要塞建設を命じたことから、タマッ
ラッラン部落は再びカッドブロ作りをして建設工事に協力した。

要塞が完成すると、今度は要塞の外の水田地区一帯が兵士の軍事訓練の場にされ、タマッ
ラッラン部落は再び、カッドブロを訓練中の兵員のために提供した。

そんな歴史をたどって、タマッラッラン部落民にとってのカッドブロは祝祭のための食べ
物という位置付けに置かれるようになった。部落の創設祭や収穫祭には不可欠なものにな
ったのである。


ところが1666年のマカッサル戦争でオランダVOCがマカッサルを占領してからとい
うもの、ゴワ王国はオランダ人との継続的な戦争状態に入る。オランダ人が日本人に入れ
替わり、そしてインドネシア共和国独立に至るまで、タマッラッラン部落はアカッドブロ
を忘れ果ててしまった。

ゴワ王国最後の王、第36代のアンディ・イジョ・ダエン・マッタワン・カラエン・ラロ
ラン・スルタン・アイドゥディンAndi Idjo Daeng Mattawang Karaeng Lalolang Sultan 
Aidudinが独立インドネシア共和国ゴワ県の県令に就任してから、インドネシア共和国の
独立記念日祝祭にアカッドブロを行うよう県民に呼びかけた。こうして何世紀も中断して
いたアカッドブロがタマッラッラン部落によみがえることになったのである。