「ジョグジャにつながるクワイ河の橋(1)」(2019年06月17日)

マドゥキスモMadukismo製糖工場はヨグヤカルタ王宮から南西方向におよそ3キロほど離
れた位置にある。そこはヨグヤカルタ特別州バントゥル県カシハン郡ティルトニルモロ村
パドカン部落が行政区画名称になっている。

この製糖工場は砂糖の他にアルコールも生産しており、ジャワ島のたいていの砂糖工場の
例にもれず、サトウキビの収穫期には昔ながらの小型蒸気機関車がサトウキビを満載した
ロリーを引いて工場にやってくる姿を目にすることができる。州の観光施設になっていて、
工場内の見学を申し込んでも歓迎してくれるようだ。

マドゥキスモ製糖工場は1955年にスルタン・ハムンクブウォノ九世Sultan Hamengku 
Buwono IXが再建させた。元々オランダ時代にヨグヤカルタ王国領内にはオランダ人が1
9の製糖工場を作って運営し、ジャワ島内各地の製糖工場と一緒になって世界の砂糖市場
に製品を供給し、大いに繁栄していた。オランダ領東インド植民地がオランダ本国を富ま
せるのに貢献した物産のひとつだ。

19の製糖工場は、日本軍の占領によって日本軍政下に置かれ、日本の敗戦によってイン
ドネシア人の手に委ねられた。オランダ領東インドの復活を目論んで戻って来たオランダ
植民地文民政府の軍隊が独立を宣言したインドネシア共和国との戦争状態に入ったとき、
オランダ側はそれを反乱分子鎮圧のための警察行動と理論づけた。

1948年12月に始まった第二次警察行動はヨグヤカルタがターゲットにされたことか
ら、共和国側は19の製糖工場をオランダ側の基地にさせないためにすべてを破壊しつく
した。そして最終的にオランダがインドネシア共和国の完全独立を承認したあと、パドカ
ン製糖工場の跡地にマドゥキスモ製糖工場が建設されたというのが、歴史の流れだ。

だが、そのパドカン製糖工場は、日本軍政下に日本人が既に破壊しつくしていたものなの
である。どうしてそんなことが行われたのか?


コンパス紙記者で伝記作家でもあるユリアス・プール氏は2006年2月終わりごろ、フ
ウェー河の岸辺から鉄橋を臨んでいた。これがあの世界に名高い泰緬鉄道の鉄橋なのか。
11本のコンクリート製橋脚に支えられた鉄骨の橋の上を単線路がまっすぐ向こう岸へと
渡っている。

想像していたものとは大違いだ。河の規模と言い、鉄橋の形や大きさと言い、たいして印
象的なものではない。バンコクから120キロも離れたここまで2時間半かけてやってき
た。焙るような暑熱の下で、川は茶色の濁流をゆったりと走らせている。

タイ観光局のガイド嬢がかれに言う。「これがその橋です。どうぞじっくりとご覧くださ
い。でも、橋を渡ろうなどと考えないように。ビルマ兵が気を悪くして、狙撃してくるか
もしれませんから。」

フウェー河は昔、Mae Klongという名称だったが、1950年にKhwae Yaiと名前を変え
た。タイ(泰)とビルマ(緬甸)を結ぶために、第二次大戦中に日本軍が国境に近いタイ
領内のRiver Kwaiにかけたのがその橋だ。タイ語では、クワイと呼ばずにフウェーと発音
するようだ。[ 続く ]