「チュコン」(2019年06月19日)

数人で食事をするとき、one table one billだとアメリカ人は困ってしまう。特にこのキャ
ッシュレス時代に、誰かが代表で支払いを行ったとして、その集いが解散してしまえば代
表者は誰かの飲食分をなにがしか負担させられてしまう結果になる可能性が大きい。

全員がボナファイドだと仮定しても、たまにしか会わないひと、記憶力の弱いひと、まし
てや自分が注文したものの金額をメニューから書き写してメモを残し、それをまた会った
ときに律儀に代表者に現金を渡そうなどと全員がするかどうか。

それを民族性と呼ぶ人もあるが、これはあきらかに文化体系を構築している価値システム
の一面がその場に反映されたものであり、アメリカ人の価値観においては全員がぎこちな
い思いをすることになりそうだ。


インドネシアでは、たいていの食堂レストランでビルを分割してくれと頼んでおけばそう
してくれるのだが、インドネシア人は九分九厘そんなことを頼もうともせず、暗黙裡に合
意されている者があたかも自分の義務であるかのごとく、支払いを行う。

インドネシアで働くようになった初期のころ、部下のインドネシア人マネージャーの話を
聞きたいために昼食に誘った。食事を終えてから、支払いは半分ずつでいいかとかれに尋
ねたら、誘った人間が払うのがインドネシアでは常識だと教えられた。

インドネシアで誕生日の祝いをするときは、自分の誕生日を祝ってもらうためにみんなを
招待するというコンセプトが基本であることも別の機会に学んだ。その考え方はオランダ
のものらしい。みんなが集まってわたしの誕生日を祝ってくれるという甘い考えはインド
ネシアにいる間は捨てたほうが無難だ。


インドネシア語のtraktirは食堂レストランで他人が飲食した分を払ってやることを意味し
ている。語源はオランダ語のtrakterenで、つまりは日本語の「おごり」に該当している。

不思議なことに、traktirのシノニムとしてのインドネシア古来の単語が見つからない。割
り勘で有名なオランダ人の言語の中にある「おごり」がインドネシア人の「おごり」行動
に対する唯一の語彙であるというこの現象を、われわれはどう受け止めればよいのだろう
か?


インドネシア人は食堂やレストランでみんなで食事したり、数人が一緒にタクシーに乗っ
たりすると、だれかひとりがみんなの分まで支払うのが普通だ。たとえば複数の人間があ
る期間一緒に行動するような場合、ひとりが負担し続けるのは気の毒だという考えが働い
て順番制になることもあるが、それぞれが負担した累計金額の多寡を問題にする者はいな
い。

ただし、その数人のひとりが明らかに裕福な人間である場合、たとえば社長の息子と社員
数名といったグループであれば、その裕福な人間がすべてを負担することも常識になって
いる。

インドネシアでは社会的ステータスと裕福さが裏表の関係になっているのが常識であり、
裕福な人間は社会的ステータスを持ち、そのステータスから来る体面が裕福さで劣る人間
への経済サポートに向かうことを社会が期待しているという構図がそこに感じられる。

社長の息子を差し置いて社員が「これはわたしが払いましょう」などと言うのは、社長の
息子の体面を傷つけるおそれがあるにちがいない。だから社員たちは「いつも払ってもら
って申し訳ない」と思いながらも、上位者への反逆を怖れ、社長の息子が「次はあんたた
ちが払ってよ」と言うのを待っていると考えるべきなのだろう。

その社長の息子のような立場の人間をインドネシア語でチュコンcukongと呼ぶ。チュコ
ンとは福建語の「主公」に由来する言葉だそうだ。日本語で言うなら「金主」だろうか。

外資系企業で部長職や重役職に就いている駐在員は、インドネシアの社会常識から見れば
社長の息子の立場に該当しているのである。既に社内風土がインドネシアの社会常識から
外れたものになっていて、チュコン扱いされる新米駐在員が出ない会社は、幸いなる哉。