「スマトラ死の鉄路(4)」(2019年06月28日)

国際赤十字データによれば、インドネシア人労務者10万2千3百人中の8万人と、連合
国軍戦争捕虜6千5百人中の7百人が建設工事中および工事終了後に死亡したとのことだ。
西洋人の死者の多くは線路沿いに埋められたと言われており、インドネシア人労務者につ
いては大きな穴を掘らせてまとめて埋めさせたという話もある。このできごとは後に「プ
カンバル死の鉄路」という名称で人口に膾炙することになった。

工事作業者たちはジャングルを切り開き、急峻な山岳地帯をうがち、沼地を埋立て、川に
橋をかけ、道を作って線路を敷設したが、熱帯のさまざまな疫病に加えてリアウの沼沢地
にはたくさんのマラリア蚊が棲息しており、昼夜を分かたず休みさえない突貫工事で体力
を消耗し、量的質的に不十分な食事で抵抗力すら低下したかれらは、容易に死の腕にから
めとられて行った。

動員された連合国軍戦争捕虜6千5百人超ということについて、インドネシア語情報の多
くが戦争抑留者と表現し、ヨーロッパとプリブミの混血者が少なくなかったと書いている
ことから、7千人近い欧米人の中に民間人抑留者も少なからず含まれていたのではないか
という印象をわたしは受ける。

というのは、日本軍は蘭領東インドを占領すると、敵軍捕虜や敵性民間人を捕らえて抑留
者キャンプに収容したことから、抑留者キャンプの単位で見る限り、キャンプにいた人間
は敵軍捕虜だけではなかったようにわたしには思えるのである。


その渦中にあった抑留者のひとりが書いた文章には、1943年10月と12月にパダン
の男性と婦女子の両抑留者キャンプからリアウRiau州カンパルKampar県バンキナン
Bangkinangに全員が移動させられた、という話がある。工事現場に近い土地に軍人捕虜
・民間人・婦女子までもが移されたようだ。1944年末には、バンキナン抑留者キャン
プの人口は3千2百人に達していたらしい。

このプカンバル死の鉄路建設工事では、線路が延びて行く中で要所要所の13カ所に労務
者キャンプが作られ、そこが列車の停車駅にもなった。13番目が西スマトラ州のムアロ
になっている。バンキナンはもちろん、線路沿いの労務者キャンプのひとつではない。そ
こはもっと大規模で恒久的な抑留者収容施設であり、鉄道線路からも数十キロという離れ
た位置にあった。


また体験者である別のひとりのアメリカ人船員が書いたものには、プカンバル死の鉄路建
設工事に日本軍は、1944年5月から9月までの期間に5千人を超える連合国軍捕虜を
投入したという文が見られる。5千人のうちの4千人近くはオランダ王国植民地軍の軍人
であり、1千人近くが英国陸海空軍軍人だった。他にオーストラリア人2百人と米国人1
5人も含まれていたが、その多くはドイツのUボートに沈められた商船の乗組員だった、
とかれは書いている。かれはまた、死の鉄路で生命を失った捕虜7百人の平均年齢は37
歳3カ月という統計数値まであげていた。[ 続く ]