「バカルトンカン祝祭」(2019年06月28日)

リアウ州ロカンヒリル県の首府がバガンシアピアピBagan Siapi-apiだ。県民人口35万
人の中の7万人がバガンシアピアピ住民で、インドネシアで華人系住民が多数を占める都
市は、西カリマンタンのシンカワンとスマトラのバガンシアピアピが双璧だと言われてい
る。

何百年も前にやってきてこの地に定住した華人たちは、年に一度厄払いの盛大な祭りを行
う習慣を始めた。だがオルバ政権の華人抑圧政策によってその祭は禁止され、30年以上
もの間、盛大な祭りは途絶えていた。

オルバレジームが崩壊してグス・ドゥル大統領が華人復権の法改正を行った時、その盛大
な祭はやっと復活した。盛大な祭というのは、巨大な木造船のレプリカを神輿よろしく祭
礼場にかつぎ込み、火をかけて燃やすという儀式だ。その船には疫病や災厄が封じ込めら
れ、一年間の無病息災を祈りつつ火がかけられる。

バガンシアピアピ出身の華人たちはこの祭がたまらなく懐かしいらしく、2019年6月
19日に行われた祭には各地に移り住んでいた出身者5万人以上が故郷に戻って来たとい
う話が報じられている。「ジャカルタ・スラバヤ・スマラン・メダン・プカンバルはもと
より、シンガポールやオーストラリアからもやってきた。かれらはホテル・ゲストハウス
・寺院や財団宿舎などに泊っている。」バカルトンカン実行委員会役員はそう述べた。


中国人はこの催しを「燒王船」あるいは「送王船」と呼び、祭のことを「王船祭」と呼ん
でいる。インドネシア語ではbakar tongkangと呼んでいるだけで「王」の意味が含まれて
いない。

tongkangというのは貨物をたくさん運べるように作られた船で、現代ではバージ船に対
応するインドネシア語として使われているが、昔は東インド島嶼部で作られ使われていた
大型木造帆船を指していた。中国語では「同康」という文字が当てられているのだが、語
源的な関連性はあるのだろうか?

この王船祭に使われるレプリカは華南地方で一般的なジャンク船の船体を模したもののよ
うに見える。王船祭の発端となった由来話では、バガンシアピアピに最初にやってきた華
人たちが使った船を焼いたことになっているため、ジャンク船であるのは間違いないこと
だろう。tongkangというインドネシア語とジャンク船が結びつきにくい印象をわたし個
人は感じるのだが・・・


福建人が移住したタイ南部のソンクラで、原住民との間にコンフリクトが起こったことか
ら、福建人の一部は別の土地を求めてソンクラを後にした。一行は三隻のトンカンで南シ
ナ海を南下した。その航海の中で一隻だけが生き残り、船に乗っていた18人は既に生き
た心地も絶え果てていたが、船首に置かれた代巡王爺Tai Sun Ong Yaの神像と船室内に置
かれた紀府王爺Ki Hun Ong Yaの神像に無事を願い、祈り続けた。ある夜、ちらちらと小
さい光がいくつもまたたいていることに気付いたかれらは、神の御導きとばかりその方角
を目指し、ついに陸地に到着したのである。1878年のことだった。

そして18人は、神が導いてくれたその土地で必ず繁栄を築き上げようと誓い、そこから
また別の航海を起すことは決してしないことを約束して、自分たちが乗って来た船を燃や
した。それが王船祭でレプリカの船を燃やす儀式の由緒だということになっている。

ただし、異説は常に存在し、1860年代には既に華人がそこに住んでいたという説もあ
れば、ソンクラからの航海に南海を股にかけた海賊「陳連禮」Chen Lianliがからんでい
る話も登場する。

ともあれ、かれらはその海岸の地に住み着き、主に漁労をなりわいとして村を作り、後に
他の華人たちが続々とそこへやってくる受け皿となった。現在バガンシアピアピの華人コ
ミュニティはマジョリティが福建人で、他にも潮州・客家・海南・廣府などで占められて
いる。

移住してきた華人が興した土地が現在のバガンシアピアピなのである。地名の由来とされ
ているのは、船から見えたまたたく光がホタルの火で、それをシアピアピと表現したこと。
またバガンはムラユ語で本拠地・家の骨組み・魚を干すための木枠などいくつかの意味を
持っており、そのどれが地名として選択されたのかはよくわからない。