「yaとハイの差」(2019年07月03日)

日本語の応答語「はい」は相手の言葉に肯定の意を示すのに使われるものというのが一般
常識になっている。その結果、命令・指示・要請・依頼などの文に対して「はい」という
応答がなされると、日本人はその相手が自分の言葉を了承して受け入れたものと考える傾
向を持っている。そこに落とし穴がある。

辞書には、丁寧に応答するときや相手の注意を促す呼びかけという用例も示されているの
だが、上述の傾向はそれを独善的に排除してしまうことが多い。

親戚の伯母さんに素行をくどくどと意見された若者が、「はいはい、伯母さん。もうその
くらいでいいよ。耳にタコができらあ。」と使うときの「はい」はいったいどの用法にな
っているのやら・・・

昔の軍隊では、「はい」の落とし穴を塞ぐために、伝達命令を復唱させた。
「はい、XX伍長は部下5人を率いて、明朝日の出と共に敵前突破を敢行します。」そう
言わせることで、命令された内容が本人の意思表示に切り替えられ、「はい」がただの応
答でしかなく自分は従う意志を持っていなかった、というエクスキューズの余地を塞ぐ心
理上の効果を狙っていたにちがいない。

インドネシア語のyaもまったく同じだ。ただしインドネシア語の場合は、もっと深いファ
クターが関わっている。社会生活における礼節規範としてtidakを言うのがはばかられるた
めにyaを言うという要因がそれだ。つまり社交上しかたなく嘘をつくという行為である。

遠い昔には日本語の「はい」にもそれがあったと思われるのだが、現代日本人にとっては
既に歴史の塵埃の中に埋もれた観念になってしまっていることだろう。「口先でハイハイ
言うだけで、何をしようともしない」という日本語にそっくりのジャワ語に「Nggih, nggih, 
mboten kepanggih.」という慣用表現がある。

インドネシア人部下に指示を与えて、そのときかれはyaと言ったのに、数日後に進捗状況
を尋ねたら何もしていないことが分かり、烈火のごとく激怒する外国人駐在員の姿は、ま
だあちこちで見られるだろうか?インドネシア人は仕事のめりはりをつけず、のらりくら
りと言い訳ばかりして、まったく信用できない連中だ、とぼやく外国人駐在員はもう見ら
れなくなっただろうか?

インドネシアの文化、特にジャワ人のそれにおいては、社会生活の中で垂直方向の人間関
係が基盤をなしている。先輩・上司・社会的有力者・知名人・年長者には尊敬が示されな
ければならない。それをしなければ社会性欠如の烙印が捺され、人格が軽視されたり否定
されて社会的不具者扱いされることになる。尊敬を示す方法はさまざまあるが、否定の言
葉を発するのはほとんどいつも不遜の態度の代名詞と見られがために、社会秩序を冒涜し、
共同体構成員の安寧感覚を傷つける。

だから無理で無茶な命令や要求でも、表立ってtidakを言う人間はおらず、みんなが不承不
承yaと嘘をつくことになる。それがアジア型封建社会の特徴だ。社会が個人に嘘をつくこ
とを強要するのだから、嘘は悪でもなければ罪でもないことになる。

嘘が普通のことになれば、悪意のある嘘だけが罪とされ、善かれと思ってつく嘘は善行に
なる。嘘そのものを悪としたがゆえに、客観的に物事を観察して正直に述べるという姿勢
がどこの文化で培われたかは、歴史が示す通りだろう。

上司にtidakが言えないインドネシア人は、上司と、そして自分を取り巻いている職場のみ
んなに不愉快な思いをさせたくないがためにyaという嘘をつくことがある。部下をその者
の口先だけで判断しようとする上司は、嘘をつかれることになる。それを防ぐためには、
インドネシア人の口から出る言葉とともに、かれのボディランゲージをも観察しなければ
ならない。

インドネシア人上司はみんなそれを何の苦もなく行っているのだから、外国人上司も感受
性のアンテナを高くすることで克服できるはずではあるまいか。