「異文化接触(後)」(2019年07月16日)

反抗という形のリアクションは、敵視し、怒りを向け、国と人間を憎み、ネイティブの行
為行動に反対し、周囲のネイティブに疑惑のまなざしを向けるあり方だ。かれはネイティ
ブと理解し合い溶け合うことを拒み、自分の殻の中に閉じこもってしまう。かれは外国人
同士、特に同国人同士で集い、時を過ごすほうを好む。ネイティブや地元文化との接触は
最小限だ。ものごとを客観的に観察し、歴史をからめて状況を分析する考えなど一切持た
ず、この国の人間が悪い・間違っているという断罪一本鎗に陥るのである。

人類学者のひとりはこの種の人物像をつぎのように描写している。
清潔に関して潔癖すぎる感性とそれを侵されることに我慢できない人間がいる。この国に
暮らし始めたとき、不潔ということがこれまで自分が体験したことのない最大の問題にな
った者がいた。飲み水・食べ物・食器からベッドに至るまで、すべてがそうだ。ネイティ
ブとの身体的接触を怖れ、自分の使用人すら不潔をもたらすかもしれないと怖れた。
自分はどうすればいい?頼れるのはこの国に長く住んでいる同国人だけだ。あってなきが
ごとしのゴム時間と呼ばれる時間の観念の被害者になるたびに激怒し、つまらないことに
まで当たり散らした。ネイティブの習慣や作法など知りたくもない。ネイティブが自分を
欺き、物を奪い、自分を襲撃するようなできごとを心から恐怖した。身体にちょっとした
痛みを感じたり、皮膚に小さいできものを見つけると、恐怖に襲われた。そして結局、望
郷の念に駆られて帰国して行った。

自分が生まれ育った土地、自由に往来を行き来し、親族友人と好きなように訪問し合い、
自分と同レベルで意見を交換し話し合うことのできるひとびとがいる故国、愚かなネイテ
ィブなどいない場所。異国体験は心身をさいなむ拷問でしかなかったのである。


ある国に滞在している外国人のマジョリティが多かれ少なかれ、そのような種類の人間だ。
しかしコスモポリタンは違う。かれは大きなオプティミズムを抱き、ものの見方やリアク
ションはポジティブで、ネイティブへの感情移入ができ、さまざまな問題をネイティブの
視点で見、加えて旺盛な好奇心のためにいろいろなことに関わろうとし、困難が出現して
もそれを受け入れようとする。このようなひとはたいてい、既にクロスカルチャーや異文
化接触に関する教育を受けたり、知識を持っている。かれらは異国の文化の中に自分を適
応させ、そこに自分の生きざまを映し出すことを望むのである。自分の祖国でも、異文化
の地でも、あたかも両生類のように生きることができる。

その先端的な例が疑似ネイティブだ。たとえ姿形が明白に異人種であっても、かれはあた
かもネイティブのように振舞い、ネイティブのように生きる。自分を育んだ文化を引きず
ることはほとんどなく、圧倒的に地元文化に深入りする。地元文化が持っている生き方、
食事、衣服、言語などを自分のものとし、それによって起こるリスクを怖れない。結果的
に、ネイティブを伴侶として自分の家庭をそこに築くようになるのは、当然の帰結だろう。


「ヨグヤにいたら、ヨグヤ人のように振舞え。」それが文化適応の真髄なのだが、そう簡
単にはいかない。人間は異文化の中に投げ出されたとき、水から出た魚になってしまうの
である。そのときに人間が執るリアクションは既に述べたとおりだ。もちろん中には、触
れたばかりの地元文化に惚れ込んで故郷を劣等視し、地元文化の一員になった自分を誇る
というケースもあるのだが。

異文化内で生活をする人間が経験する情緒的な激動が落ち着く期間はひとによって異なる。
数カ月の場合もあれば、数年かかるひともいる。おまけにカルチャーショックの深刻さは
個人差が激しく、性格・言語能力・感情・滞在期間、そしてふたつの文化が持っている差
異の大きさなどが影響を与える。

「わたしの家も窓もぴったり閉め切られるのは嫌だ。あらゆる民族のあらゆる文化がわた
しの家の周囲を自由に吹き抜けるのがいい。しかしその中のひとつが特別強く吹きつけて
来ることなど、わたしは決して望まない。」マハトマ・ガンディの名言だ。[ 完 ]