「メダン語の妙」(2019年07月24日)

ライター: 詩人、エッセイスト、ダミリ・マッムッ
ソース: 2019年5月25日付けコンパス紙 "Titi Gantung"

「アパカバル、ティティガントゥン?」長くバリに移り住んでいる友人からの質問だ。

やはりメダンにあるティティクニン、ティティボブロッ、ティティランテ、そしてティテ
ィパッラワンなどと違って、ティティガントゥンは特別の魅力を持っている。夕方になる
と大勢の市民がリラックスしたり疲れをいやすためにそこへ行く。それは流れる川に分断
された両岸をつなぐ通路でなく、メダン大駅Stasiun Besar Medanに続く線路の上をまた
いでいる橋なのだ。

北スマトラのさまざまな駅との間を往復する列車が乗客を乗せて絶え間なく走っているた
め、メダン市内のふたつの重要なエリアが分断されている。商業センターのPajak Sentral
と行政センターの市庁舎およびLapangan Merdekaがそれだ。その間を結ぶためにオラン
ダ人が1885年にティティガントゥンを建設した。今で言うなら、陸橋だ。


ここで話題にしようとしているのは、全国メディアが、おまけに地元マスメディアまでも
が、ティティガントゥンという言葉をジュンバタンガントゥンあるいはジュンバタンティ
ティガントゥンに変えている現象だ。ただしメダン市民は150年前にそれが作られて以
来の名称になっているティティガントゥンをいまだに使い続けている。そればかりか、冒
頭で挙げた友人、マカッサル出身でだいぶ以前にメダンを去り、移住して行った詩人フラ
ンス・ナジラまでもがそう呼んでいる。

メダンで使われているインドネシア語はムラユ語の影響が濃い。titiはjembatanと同義語
であり、ジュンバタンティティガントゥンは二重表現だし、ジュンバタンガントゥンもメ
ダンでは異様に聞こえる。言葉というものは、ある場所ある環境内において、その使用者
間で合意されたコミュニケーションツールだということは周知のとおりである。多分行政
面での便宜のために、たとえばpenghulu kampungはkepala kampungに、そしてさらに
kepala desaに、というようにいろいろな言葉が統一されているのだろう。しかしメダン
周辺の各地では、pak kadesと変えられたにもかかわらず、penghuluの語をいまだに大勢
が使っている。メダン最大の商業センターはpajak sentralという名称だったが、それが
sentral pasarに変わり、更にpusat pasarに変化した。


アネクドートがひとつある。サムスル・バッリというジャカルタの高官が観光芸術文化省
地方事務所長としてメダンに転勤してきた。ニアスへ視察に赴くために、かれは種々の買
い物を余儀なくされた。それらの品物は普通どこで買えるのかと所長は運転手に尋ねた。

運転手は言下に答えた。
「Di pajak, Pak.」
「えっ?パサルじゃないのか。」所長は腹の中で舌打ちしながら思った。
『買いもしないうちから税金をかけるとは・・・』
ところが運転手は所長の言葉に追い討ちをかけて説明した。
「Bukan di pasar, Pak. Di pajak. Kalau di pasar, kita bisa dilanggar!」

どうも運転手の言っていることが腑に落ちないと思った所長は、事細かに質問を加えた。
そして車内にふたりの大笑いが鳴り響いたという話だ。

メダンでは、購買中心をpajakと言い、pasarは大通りのことで、langgarは衝突すること
を意味している。ボスを車に衝突されるかもしれない大通りで買物させては大変だと運転
手は思ったのだ。そんな危険なことをすれば、自分はきっとクビになるだろう。

言葉のバリエーションは異文化の人間を親密にする。実にうれしそうに、所長はわたしに
その話をしてくれた。