「グラライ空港史」(2019年08月13日)

オランダ植民地政庁が20世紀初頭にバリ島を南洋のパラダイスに仕立ててバリ島観光の
大プロモーションを開始し、乳房を隠さない女性のシルエットを売り物にして白人文明社
会にパラダイス体験を呼びかけたころ、グラライNgurah Rai空港はまだ存在しなかった。

グラライ空港の前身は1930年に作られたトゥバンTuban飛行場であり、そこが民間商
業フライトの港としてよりも、オランダ空軍の常駐基地としてよく使われていたのは、こ
れがインドネシア>バリ特集>バリ島のミュリエル;
http://indojoho.ciao.jp/koreg/ymuriel.html
の中に描かれている通りだ。

スカルノ初代大統領は白人の観光遊覧先としてインドネシアの門戸を開く気をさらさら持
たなかったが、スハルト第二代大統領はその経済開発の父というニックネーム通り、オラ
ンダ植民地時代のバリ島パラダイス観光を復活させた。ただし乳房を隠さないバリ島の慣
習は禁止され、女たちは公共の場に出る時、必ず胸を隠すように命じられた。

ヤシの木より背の高い建物の建築が禁じられ、建物は鉄筋コンクリートの箱型が避けられ
てバリ様式のものが土着性尊重の名のもとに方向付けられた。往古からのトロピカルバラ
ダイスというイメージをぶち壊す現代産業や施設の存在は認められず、あらゆる類の工場
は作られることがなく、また鉄道すら島内に設けられることもなかった。バリ島に第二次
産業のマッシブな発展が見られないのは、そのような政治方針が原因だったにちがいない。

だが、大型空港を設けて諸外国からの観光客をダイレクトに受け入れる体制を作ることが
バリ島観光の生命線となるのは、論を待たないはずだ。1963年からトゥバン飛行場の
大改造工事が開始され、1,310万米ドルの工費をかけたグラライ国際空港がスハルト
大統領列席の下にオープンしたのが1969年8月1日。

全長2千7百メートル、幅45メートル、耐荷重145トンの滑走路は、当時の大型機エ
レクトラ、コンヴェアー、DC−8、DC−9、カラヴェルなどがどこから飛んでこよう
が、楽々と受け入れることができた。世界の観光客をジャカルタで入国させて、そこから
国内線でバリ島へ、というような手間と時間をかけさせないスタイルは歓迎された。

最初にグラライ空港へのダイレクト航路を開いた外国航空会社は、タイインターナショナ
ル、フィリピンエアーライン、マレーシアシンガポールエアライン、クアンタスQuantas、
キャセイパシフィックで、オープニング式典の際にスハルト大統領はジャカルタからイン
ドネシア空軍のジェットスター機、友好国大使団一行と運輸大臣はガルーダ航空のコンヴ
ェアー990A2機とエレクトラ1機をチャーターしてグラライ空港に降り立った。スハ
ルト大統領は空港で2百人のプンデッPendet踊子の出迎えを受け、その日夕方はケチャッ
ダンスを観賞した。


わたしのバリ島体験の最初は1973年のことで、グラライ空港開設から4年経っていな
かった。ジャカルタを経由してグラライへ行く国際線にジャカルタから乗ったひとの中に
パスポートを持っていないひとが何人かあり(国内線だから当然なのだが)、ターミナル
内の入国審査ルートと国内線ルートの分岐チェックポイントで引っ掛かっているひとの姿
が散見されたことを記憶している。

別の折にバリからジャカルタに戻る際、何が原因だったのか覚えていないのだが、自分の
委託バゲージが間違いなく飛行機に積まれていることを確認したいと要求したら駐機中の
機体に連れて行ってくれて、貨物室の中で自分のトランクを探した体験もある。機体が小
さいからすぐに見つかったのだが、現代では起り得ないようなことが起り得た、鷹揚での
んびりした時代だった。

グラライバイパスbypass Ngurah Raiは空港からサヌールまでつながっていたが、空港か
らヌサドゥアへの南行きが工事中で、その後しばらくして完成したことを覚えている。あ
のころ、BTDCホテル地区へ行くのはたいへんだったにちがいあるまい。わたしはサヌ
ールの廉価バンガローを定宿にしていたから、ヌサドゥア高級ホテル地区へ行こうと思っ
たことは一度もない。


2013年のAPEC会議のためにグラライ空港国際線ターミナルは大改装されて12万
平米に拡張され、年間1千6百万人の収容能力を持つに至った。その後、国内線エリアも
改装と拡張が行われて6万8千平米に広げられ、年間収容能力9百万人になっている。
また、海中に張り出していた滑走路と地上操機エリアは埋立工事によって70Ha拡張さ
れ、今や滑走路は3千4百メーターに伸ばされている。