「大文字のAnda」(2019年08月20日)

ライター: インドネシア語シソーラスTesamoko編纂者、エコ・エンダルモコ
ソース: 2017年12月30日付けコンパス紙 "Anda Besar atau Kecil"

Andaの頭文字はどうしていまだに大文字で書かなければならないのか?インドネシア語綴
り総合規準では、ただそう決まっているとしか示されておらず、何の説明も得られない。

ブラウンとギルマンによれば、イヴァン・ラニンは二人称をフォーマルとインフォーマル
に区分した。andaはフォーマルに区分されたため、頭文字は大文字で書かれることになっ
た。ラテン語に始まったその区別が、ローマ帝国を通して他のヨーロッパ諸語(オランダ
・ドイツ・フランス・スペイン)に伝わった。さらに後世、その慣習は世界の諸語にまで
広まっていった。マレーシアやインドネシアもその仲間だ。

インドネシア語使用者はかなり長期間にわたってAndaを使っていたが、種々の根拠でanda
を使う一群のひとびとが出現する時代が徐々にやってきた。わたしはまず読者に、ロジカ
ルな質問を呈することからはじめたい。kamu, saudara, engkau, sampeyan, enteなどは
どうして同じ扱いがなされないのか?それらはandaとまったく同じ、二人称単数代名詞で
あるというのに。この質問は「Andaとは、尊敬されるひとびとに特別に使用される尊敬語
形式なのである」という主張によって無視されるだろう。


実際にsaudaraという語も尊敬語として扱われた時代があり、そのため、尊敬語としての
正しい標準表記はSaudaraであるという意見が出されたこともある。頭文字を大文字にす
るその表記は、セマンティックな背景をも持っている。親族を意味するsaudaraと区別す
る効果があるのだ。この意見がいまだに有効であるのかどうか、わたしにはわからない。

大辞典を調べてみてもよいだろう。ところが大辞典にあるのはsaudaraだけだ。もし
Saudaraという語形が受け入れられているのなら、辞書にはホモニムとしてsaudaraと
Saudaraのふたつのエントリーがあってしかるべきだ。


数多い二人称単数代名詞の中で、どうしてandaが採り上げられて、いったいだれがそれを
尊敬語形式であると決めたのか?ここで使われている尊敬というコンテキストは、ある言
語関係における個人対他者という、ひと対ひとの関係のレベルや性質に関連するものだ。
つまり、きわめて主観的なものなのである。そこに問題がある。

「Kegagalan Anda(2009年7月18日付ピキランラヤッ紙)」の中でアイップ・ロシ
ディ氏は、1958年にロシハン・アンワル氏がandaを英語のyouと同じようにあらゆる
人に対して使える二人称単数代名詞として推奨したのは失敗だったと書いた。なぜなら
「言葉というものはそれを使う社会の文化と密接な関連性を持っていることに、かれは気
付かなかった」のである。その言葉は子供が父や母に対して使うことのできないものだっ
た、ともアイップ氏は書いている。

尊敬する人物に対する呼び掛け語として、ひとは種々の代名詞を使うことができる。たと
えばsaudara, sampeyan, enteなどだ。それらは単語の頭文字をいちいち大文字にしてい
ないのだから、Andaだけがそうされる理由などないのではあるまいか。SampeyanやEnteを
認めず、Andaだけそうしろと言うのは、じつに横暴な姿勢と言えるだろう。

最終的にわれわれが見たものがそれだ。Saudaraは非フォーマル化が起こり、andaはフォ
ーマル化されてAndaが出現している。とはいっても、Andaが過去の時代のユーフェミズム
の残滓、あるいは自己卑下シンドロームの象徴であると速断する気は、わたしにはさらさ
らないのだが。