「tolerasi」(2019年08月28日) ライター: 語義オブザーバー、サムスディン・ブルリアン ソース: 2010年12月15日付けコンパス紙 "Tolerasi" インドネシアではtoleransiという言葉が知られている。tolerasiという単語はほとんど 耳にしたことがない。英語のtolerationとto tolerateという単語ですら、インドネシア 語への翻訳はtoleransiとbertoleransiになっているが、それはあまり正確とは言えない。 その両者の間にはかなり重要な差異が含まれているのだから。 tolerasiの語義は含まれているふたつの要素から理解できる。ひとつは賛同されない行為 やことがらの存在であり、もうひとつは賛同されない行為やことがらを放任する姿勢であ る。あるひとが、たとえば自分のものと異なる意見・宗教教義・慣習などに直面したとき、 それが無くなるようにしたり、それを禁じたり、あるいはそれを妨害するような行為をか れが一切行わない場合、そのひとはbertolerasiであると言うことができる。 かれが自分の賛同する行為だけを放任する場合、それはトレラシtolerasiでない。自分の 反対する行為を行ったり反対するものを有する人間をかれが殴ったり、その人間の財産に 投石したりするなら、それは明らかにトレラシではないのだ。 トレランシtoleransi、英語のtolerance、は第三の要素を含んでいる。心の中にトレラシ を実践したい希望とそれを実現させる能力を持っていることだ。それは現在この地上を覆 っている社会・文化・宗教・人種・イデオロギー等々の多様性に即した世界観・視点・理 想的生活態度を反映するものであるがゆえに、この第三の要素はきわめて重要なのである。 トレランシがなくとも、トレラシは起こる。たとえばオルバ期にトレラシはたくさん起こ った。それは特にふたつの要素に起因している。国がそれを強制したこと。自分と考えの 違う者やライフスタイルの異なる者にひとは関わりあおうとしなかった。国にしょっぴか れるのを怖れたためだ。もうひとつは、反トレラシを招くと見られた言葉や行為を国は禁 じ、あるいは極力隠ぺいした。世間に知られることが稀だったために、ひとびとはあまり そのことを考えなかった。 今インドネシアの国は、国民を怖がらせるようなことをしない。ところが昨今、反トレラ シ暴力が起こると、国政高官たちの多くは砂の中に頭を隠して、目に見える、開かれた、 賢明で熟慮された議論や行動を通じて国民にbertoleransi性格を育成するべく努める代わ りに、「これは単なる犯罪行為である」という呪文を繰り返すのである。 toleransiはよくtenggangと同義語に扱われる。しかしトゥンガンtenggangが持つ語義に 含まれている要素はトレランシに対立しているため、それはまったく不適切だ。トレラシ と同様にトゥンガンも賛同されない行為やことがらを含んでいる。ところがトゥンガンは その差異を受け入れる姿勢を持っておらず、賛同されないものを消滅させたり、賛同され るものに代えるよう強いるのである。トゥンガンが望んでいるのは、すべての人間が異な る方法やあり方で平和に共存することでなく、異なる他者が同じ方法とあり方で平和に共 存することなのだ。 トレランシは自己を低める精神性の実現形態だ。他人はみんな、わたしと同様の善人なの である。トゥンガンは高慢な精神形式である。他人はみんな、最善でもっとも完璧なわた しと同じように生きるべきだ。トレランシは広い心と愛情だが、トゥンガンは狭い心と憎 しみである。それ以外の差異はない。