「toleransi」(2019年08月29日)

ライター: 語義探究者、サムスディン・ブルリアン
ソース: 2018年6月9日付けコンパス紙 "Toleransi"    

toleransiとは蛇まで備えた完璧なエデンの園である。太陽が二つ三つの虹を包み、みん
なが和気あいあいと暮らし、愛し合い、訪問しあい、保護しあい、だれもが右に左に笑み
を交わして舌や歯がからからに乾き、悲哀も嫉妬もなく、だれもが幸福で笑いに包まれて
いるという絵を大安売りするのが大好きなトレランシtoleransi運動家たちは間違いを犯
している。それは馬鹿げたナイーブな理想図だ。

トレランシは天上でなく、この世にある。トレランシとは心臓によくない理想的関係だ。
ポランがピロンを嫌いだったり、ピロンの言葉や行為に賛同しないときにだけ、トレラン
シが出現する。だれとだれの間であれ、不賛同や対立といった要素の存在が前提条件にな
っている。容認できない、という快適でない感情がそこに存在するのである。ラテン語
tolerareは苦難を引き受けることを意味し、接尾辞-entiaや-antiaは程度や能力を示す。
tolerantiaは逐語的に苦の負担をになう能力を意味している。

反意や反感のベースの上に真のトレランシが構築されるのである。トレランシというのは、
ポランがピロンに面倒をかけたくないから、古ぼけたすだれの後ろで押し合いへし合いし
ながら食事するときの不愉快さにあるのではなく、ピロンが中央市場の駐車場で1ガロン
の氷水を飲むのを不愉快な思いで見ながら、ピロンがにっこりと挨拶してくるのを受ける
ところにあるのである。

反対にポランがダンドゥッを大音量で鳴らし、ピロンがそれに合わせてゴヤンしはじめた
ときに、ふたりが尻をぶつけ合い、背中をこすり合うようなことが起こったときもトレラ
ンシにはならず、suka sama sukaになるだけだ。ましてやピロンが一連のサシェットコー
ヒーを手に下げ、ポランがローカル製中身の入ったグローバルブランドの缶を抱え、ふた
りが深夜にサッカーゲームを見ながら美味を分け合うときも、トレランシではなく相互に
需要を満たし合っているのだ。

蛇はトレランシ世界にある必要悪だ。「オレは嫌いだ、反対だ。」から出発するところに、
非プラスチックの美しい「しかしオレはおまえを好きにさせる。禁止したり、痛めつけた
り、リンチしたり、威嚇したりしない。」というトレランシが成育するのである。

「オレが好きに思わないおまえをオレは尊重する。オレが不賛成なおまえの行為をオレは
禁止しない。オレが好まないことをおまえが言ったりしたりしても、オレはいつも承認す
るぜ。」という表明がトレランシを美しいものにするのである。トレランシの園に蛇は不
似合いだ。賢明さが本能を打ち負かすのである。

「オレはおまえに賛成するんじゃない。しかしおまえが何を書き、どの本を読み、何を売
り、何を買い、いつ何を飲み食いし、何をしゃべり、何を聞き、どの方角に歩こうが、ど
こで滞在しようが、だれと付き合い、だれを拒もうが、おまえの選択をオレが気に入らな
くとも、それを行うおまえの権利をオレは承認する」という言葉を抱き留めよう。トレラ
ンシは、オレもおまえも基本的人権を奪ったり損なったりしないというユニバーサルな警
告に従って、おまえが何をしようが、何をすまいが、おまえにはそうする権利があり、そ
れは許されているのだ、ということをわれわれに教えている人生の原則であり、ガイダン
スなのだ。

トレランシは成熟したグローバル社会が子供じみたトライバル世界に生まれたプライモー
ディアルな蛇を調教した成功の証である。いつかある日、トレランシの安らかな園では、
墓地は宗教で区分されなくなるだろう。