「国が借金を踏み倒す」(2019年09月17日)

インドネシア共和国が誕生してから、それまでの占領民族による銃と憲兵と強権のタガが
外れた国内経済は、戻ってきた植民地支配者の持ち込んだ新通貨方針のために大きなうね
りとなって狂い始めた。

生産力のない都市部に貯えられていた日本ルピアが続々と共和国支配地域に流れ込んでき
たために、激しい物価上昇が発生したのである。新政府はたちどころに資金難に陥った。
そのときインドネシア共和国新政府が持っていた資金はジャワ銀行・蘭領東インド政府・
大日本帝国の発行した通貨で占められており、ORIルピア紙幣の第一回発行はしばらく
後の1946年10月30日に行われている。

1946年4月29日、スカルノ大統領とスラッマンSoerachman蔵相はヨグヤカルタで、
国民から現金を借上げる方針を定めた。総額10億ルピアを国民から借り上げて、月利4
%という金利率で返済するという構想だ。

プリンゴデイグドA G Pringgodigdo国家官房が公表した1946年法律第4号(後に第9
号に通し番号が変更された)はジャワ島とマドゥラ島の全住民に対し、46年7月に自分
の持っている資金を国に貸出すよう義務付けるものだった。現金供出先は最寄りの郵便貯
金銀行Bank Tabungan Posもしくは質公社が指定された。

ただし、ここで言っている義務付けというのはインドネシア文化における義務という観念
であって、ほかの文化における義務とは異なる面を持っていることを注記しておこう。


2008年7月20日、中央ジャカルタ市ガジャマダ通りの中央ジャカルタ地裁で、イン
ドネシア共和国政府蔵相と中銀総裁を相手取って借金返済を求める訴訟が繰り広げられた。

原告が根拠にしたのは、発行されてから62年が経過した借金証書である。当時東ジャワ
州マラン県コタバトゥの村長だったアルティプさんが、新政府の貸付義務に応じた。アル
ティプさんは46年5月1日に100ルピア、46年12月1日に100ルピア、47年
7月1日に100ルピア、と合計300ルピアの現金を国に貸し付けたのである。

新政府の通貨発行方針がORI1ルピアイコール黄金0.5グラムだったから、300ル
ピアは黄金150グラムに該当する。

妻に先立たれたアルティプさんは2001年に世を去った。そしてある日、かれの5人の
子供たちのひとりが、古びたアルクルアンの書にはさまれていた借金証書を見つけたので
ある。父親が生前その話をした記憶を子供たちのひとりも持っていなかった。多分アルテ
ィプさん自身が忘れてしまっていたのだろう。

父親が国に貸した金を返してもらう権利があると子供たちは考えたのだが、国の方もする
べきことはちゃんと行っていた。1954年7月30日、スカルノ大統領はオン・エンデ
ィOng End Die蔵相と連名で「1946年国民借上金返済」に関する1954年法律第2
6号を制定施行しており、国の国民からの借金に対する処理は完了したことになっている。

村長だったアルティプさんさえ、その政府の借金処理に関する情報を得ていなかったのだ。
愛国心を持って国に現金を貸し付けた国民のかなり多数が、国からの返済を知らぬまま、
この貸借処理は忘却の彼方に消え去ってしまったのではないかという邪推がわたしの頭の
片隅にへばりついている。

政府がマスメディアや行政告知の種々の手段を講じて国民に社会告知を図っているにもか
かわらず、国民の多数がそれを知らず、いざ政策が開始されると「政府の社会告知(イン
ドネシア語でsosialisasiと言う)が足りないという苦情が必ず登場するのがインドネシ
アの常態だった。

今でこそ、インターネットの普及と政府の努力で、ソシアリサシ苦情はかなり減少した印
象だが、ふた昔ほど前はその苦情が出るのが年中行事だった。つまりこの体質は共和国独
立以来、連綿と国民の中に根を張っていたにちがいない。

原告側はそのソシアリサシ問題や「借金に有効期限は存在しえない」といった論理を織り
交ぜて、11.8億ルピアの返済金額と非物質的損害賠償として1千億ルピアを支払うよ
う、蔵相と中銀総裁に要求したのである。

11.8億ルピアの算出根拠は、現在の黄金価格と62年間の月利4%というものだった。
原告側弁護士は国の貸付者に対する連絡の不備という道義責任を盾にして強く食い下がっ
たものの、地裁判事団は原告側の要求を斥けた。

そしてジャカルタ高裁、最高裁と同じことが繰り返されて、62年前の貸付金は反故にさ
れた。「国が借金を踏み倒す」というタイトルが裁判の結末を告げる記事の冒頭で踊った。