「ルピアレートの変遷(1)」(2019年09月18日)

ルピアを国際舞台に載せて眺めてみるなら、ルピアという通貨が持った強さ弱さが見えて
くる。対米ドルレートという指標で計ったルピアの価値はインドネシアの歴史の中で激し
い変動を示した。

中でも、初代大統領スカルノと第二代大統領スハルトというふたつのエキセントリックな
時代にルピアの価値は大きい変化を見せた。そのいずれの時代にも、各レジームの歴史、
つまりは各大統領の没落史、とルピアの大暴落がまるで双子の現象であるかのようにオー
バーラップしたことは、きわめて興味深いものがある。

どちらのレジームも、その終焉はたいへん純粋な政治的できごとによっていたのは間違い
ないにせよ、ルピアの大暴落という経済情勢がそのオーバチュアとして鳴り響いていたこ
とにわれわれは意をとどめるべきだろう。

そのことを裏側から見るなら、かつてのインドネシア民族は経済面での順風逆風には鈍感
で(いや、忍耐強いと言うべきか)、大きな社会変化は政治的事件の発生を必要とする体
質を持っていたと結論付けることも可能であるにちがいない。古来からのジャワ王朝史の
たどった道程にそれをなぞらえる歴史家も決して少なくない。インドネシア人は極めて政
治的な民族なのであるというかれら自身の自己評価がそこにも結び付いているようにわた
しには思われる。

それぞれのレジームの歴史の中でルピアレートがどのように推移したのか、そこに焦点を
当ててこのテーマを見てみることにしよう。


1。スカルノ時代
インドネシア共和国新政府が自国通貨を発行するに際して、ルピアを公式名称とし、蘭領
東インドフルデンと等価にする構想が採られた。蘭領東インドフルデンはオランダ本国の
フルデンと等価にされていたから、1946年10月に産み落とされたばかりのルピアは
オランダフルデンの対米ドルレートと同じだったという論理の帰結になる。

産み落とされたばかりのルピアは日本軍政がまき散らした日本ルピアとの混同を避けるた
めに、ルピアと呼ばずORI(Oeang Republik Indonesia = インドネシア共和国通貨)と
呼ばれた。


オランダフルデンは第二次大戦中の対米ドル交換レートが1.88フルデン/USDだっ
たから、上のロジックに従えば1.88ルピア/USDになるところだった。ところが1
946年3月、オランダ政府はフルデンの対米ドル交換レートを2.6525フルデン/
USDに切り下げたのである。だからORIが市場に出回ったときには、論理的に1米ド
ルが2.6525ルピアになっていた。

ただし、インドネシア共和国自体が国際的に承認されていない時期だから、その通貨が国
際市場に受け入れらるはずがない。すなわち公式相場などは存在せず、かろうじてインド
ネシアルピアと米ドルを使える階層の中にできたブラックマーケットで通貨交換が成り立
っていたにすぎない。1948年1月の非公式マーケットにおける交換レートは19.5
0ルピア/USDだった。


一部の人がはやし立てている日本が与えたインドネシアの独立というものを国際舞台に載
せてみるなら、それは独立国家が持つべき要素の一部が欠如した不完全なものであったこ
とが見えてくるはずだ。

不完全な独立国はグローバル社会で公認されたメカニズムに参加することができないので
ある。その原理はこの21世紀に起こったISIS/ダエシュの実例を見ても明らかなの
ではあるまいか。実に、70年ほど昔に起こったインドネシア独立というのは、ISIS
/ダエシュと本質的に似通ったものを持っていたと言えるだろう。[ 続く ]