「ルピアレートの変遷(2)」(2019年09月19日)

それを完全な独立国家にするために、インドネシア民族は旧態復帰をもくろんでインドネ
シアの地に戻ってきたオランダ植民地政府の軍事力による制圧を打破しようとして、手に
手に銃を執り、また誰に指導されることもなく独自の外交を展開したのだ。

完全独立に至るまでのほぼ四年間にわたる長い闘争の時期にかれらが流した汗と血と涙の
重みと、1945年8月17日に行われたインドネシア共和国独立宣言の発端となった、
国際舞台をまったく無視して大日本帝国が行おうとした「独立」という名の権限移譲の意
味合いを両天秤にかけるなら、インドネシア民族にとっての独立というものの重みがどち
らにあるのかは言わずもがななのではあるまいか。


1949年8月23日から11月2日までオランダのハーグで開催された円卓会議で、オ
ランダはついにインドネシアの領土に対するインドネシア共和国の完全主権を承認した。
その真っ只中の1949年9月30日、公定レートは3.80ルピア/USDとなってい
る。

1952年2月、ルピアの切り下げが行われて11.40ルピア/USDとなった。

1959年8月25日、政府は国内に流通している1千ルピア紙幣と5百ルピア紙幣の価
値を10%に落とし、また残高2万5千ルピア超の銀行口座を凍結した。そのとき交換レ
ートは45ルピア/USDになったが、あっという間に9月には250ルピア/USDに
暴落してしまった。

さらに1959年12月には550ルピア/USDにダウンし、それでも落下はとどまる
ことを知らず、1960年1月には1.960ルピア/USDの過去最低値に達した。


1962年12月には1,300ルピア/USDまで回復したものの、年々国内経済を揺
り動かすインフレの波の中で、1963年1月にはまた1,900ルピア/USD、19
64年には2,000ルピア/USDというレベルが続き、そして国家経済行政面で実質
的な国民福祉を等閑視してしまった感のあるスカルノ政権時代に終止符が打たれることに
なった。1万ルピア紙幣が世の中に出現するようになるのは、スカルノ政権末期のこの時
代のことである。

1961〜62年にインフレ率は4百パーセントを記録した。国家経済は崩壊の崖っぷち
に立たされ、政府の建設プロジェクトは予算不足のために停滞した。政府会計は膨れ上が
る支出をカバーするだけの収入が得られず、赤字は増大の一途をたどった。

1960年の政府支出605億ルピアは1965年に2兆5,140億まで増大する一方、
60年に536億だった政府収入は65年になっても9,234億にしか増えなかった。
そしてその大きな齟齬を糊塗するかのように、政府は造幣に精を出したのである。60年
に478億ルピアだった市場流通通貨量はスカルノレジーム崩壊時に2兆7,750億に
達していた。[ 続く ]