「日本軍政期点描」(2019年09月23日)

日本軍政期にインドネシアでは、軍が国民生活に必要な物資流通や物価の統制を行った。
従来から世の中で経済活動の骨組みを担ったきたビジネス階層の大半はオランダや他のヨ
ーロッパ人あるいは華人などの敵性民族で占められており、それら銀行から企業・商店に
至る敵性民族の事業をすべて解体あるいは凍結して排除させたあとは、きわめて層の薄い、
経験の乏しいプリブミ事業者層しか残らないという体制になるのを避けるすべはなかった。
軍隊が従来存在した経済活動を肩代わりすることなど、ありえるものではない。

さまざまな生活基幹物資が世の中から姿を消した。食材から衣服、あるいは医薬品などの
入手が困難さを増し、街中を隅から隅まで探し回っても買うことのできる商品にお目にか
かることは滅多にできなくなってしまった。

もちろん軍は戦争遂行のための重要物資に対して特別な措置をほどこす一方、民生の混乱
を回避するためにも上限下限価格を定めて統制をおこなった。灯油をメインにする石油燃
料も重要物資として価格が統制された。現実に庶民の台所では料理に薪が使われていて、
灯油のコンロなどは滅多に見ることのなかった時代だったにもかかわらず、である。

295リッター入りドラム缶に入った灯油は24ペラッ、190リッター入りは4ペラッ、
5リッター灯油缶入りは40センだった、と歴史家アルウィ・シャハブ氏は書いている。
物価統制は乗合バス料金にも及び、軍は従来のひとり一回乗車賃5センを3センに値下げ
した。

すべての人間が決まりを決まり通り実行するのを当然とする文化の申し子たちは、どんな
少額であろうと規則破りに容赦しなかった。その現場監視と違反者への懲罰を行ったのが、
泣く子も黙る憲兵隊だった。憲兵隊は市中のパサルや商業中心に諜者を放って密告を奨励
したと言われている。「憲兵隊にしょっぴかれたら、帰って来るのは名前だけだ」という
言葉が当時プリブミの間で人口に膾炙した。

日本軍政が開始されてから5カ月後の1942年8月、統制価格を上回る値段で販売した
華人とアラブ人商人たちが大勢逮捕され、新聞で名前が公表された。しかし商人たちのほ
とんどが統制価格に従順ではなかったそうだ。

市場流通量を減らせば値上がりが起こる。値上がりを待ちながら、かれらは多量の商品を
隠匿した。既に市場で商品供給が激減しているのだから、市場情勢から隠匿の臭いをかぎ
とるのも困難だったにちがいあるまい。


そのころ、ジャカルタの町中に餓死者の死体が転がっているのはありきたりの光景だった
そうだ。餓死者の多くは田舎で食い詰め、ジャカルタへ行けばなんとかなるだろうと考え
て遠路はるばるジャワ島内の各地からやってきた上京者たちだった。モーレンフリートを
東西ではさむ今のガジャマダ通りとハヤムルッ通りの街路樹の下に寝そべっている死体を
目に止める日のほうが、そうでない日よりも多かったらしい。ジャカルタ市民も、そんな
同胞の不幸に手を貸す余裕を持ち合わせてはいなかった。

三年半の日本軍政をアルウィ・シャハブ氏は、ビル一つ建てるでもなく、何の建設もまっ
たく行わなかったと批評している。行ったのは道路・公園・地域など250を超える名称
を日本名に変えただけだった。

日本軍政がインドネシア民族に強制した、毎朝皇居の方角を拝して天皇陛下に最敬礼する
儀式は、イスラム教の教義を尊重しない、ムスリムに背教行為を強いるものとしてウラマ
層から強い抵抗を受けた。その反抗精神を叩きなおすために、憲兵隊がそこにも登場した。
宗教意識の強いムスリムたちにとって日本軍政期は法難の時代と見られたにちがいあるま
い。