「ジャカルタという名前の謎(1)」(2019年10月07日)

ヤン・ピーテルスゾーン・クーンJan Pieterszoon Coen第4代VOC総督はジャヤカルタ
に作られてあった貧相なオランダ商館を強固な要塞に改造して、ジャヤカルタの王とイギ
リス人に対する力ずくの対抗姿勢を示し、最終的にかれはジャヤカルタを滅ぼしてその跡
地にオランダの街を建設した。

その街の命名に当たってクーン総督は、自分の故郷であるホールンHoornに因んでニュー
ホールンNieuw Hoornという名称を希望し、要塞には既にその名を用い、街にもその名を
使い始めていたのだが、VOC本社取締役会である十七人会はそれを承認せず、オランダ
民族の祖先と考えられているゲルマン系バターヴィBatavi族から採ったバタヴィアという
名称にするよう命じたため、クーンはそれに従わざるを得なかった。それが東インドにお
けるバタヴィアという地名の事始めだ。バタヴィアという名称は1942年に日本軍がジ
ャワ島を占領するまで用いられた。

ジャヤカルタの滅亡が5月30日だったことから、オランダ植民地時代は毎年5月30日
にバタヴィア創設記念日の祝賀が行われた。


元々バタヴィアはスンダ・パジャジャラン王国時代にカラパKalapaという名で知られた、
王都にもっとも近い港としてのステータスを持つ、当時一番の有力な商港だったバンテン
よりも政治的な扱いが優勢な港町だったようだ。

マラッカを奪取したポルトガル人がイスラム勢力の矢面に立たされているパジャジャラン
王国との同盟を図って西ジャワ北海岸線に軍事力の投入を進め始めたとき、イスラム勢力
の盟主ドゥマッDemakと、既にイスラム化してヒンドゥブッダ勢力との地理的境界に置か
れていたチルボンCirebonはそれを容赦ならざる事態と判断した。

こうして1526年にドゥマッとチルボンの連合軍がチルボンのスルタンの息子シェッ・
マウラナ・ハサヌディンSyekh Maulana Hasanuddinを総大将、ドゥマッのスルタンの妹婿
ファタヒラFatahillahを副将としてバンテンに攻め込み、バンテンを占領してチルボン王
国の領地とした。続いてファタヒラはその翌年にカラパ進攻を行い、カラパを征服してそ
こをジャヤカルタと改称し、バンテンの属領と位置付け、自らその地の領主として経営に
当たった。


ジャヤカルタJayakartaという名前はjayaとkartaという単語が組み合わされたものだ。イ
ンドネシア語ウィキによれば語源はサンスクリット語であり、jayaは勝利、karta(krta)
は「達成された」の意味だと説明されている。ところが、サンスクリット語とムラユ語は
修飾関係の語順が逆転するため、サンスクリット語で「達成された勝利」を言う場合には
kartajaya/kertajayaとなるはずで、jaya kartaは文構造と理解せざるを得なくなり、イン
ドネシア人の一般的な理解とは食い違ってくる。言うまでもなく、外来サンスクリット単
語をムラユ語文法で処理したものというのがウィキの意図だろうということは想像が付く
のだが・・・

ムラユ語としてそれを見るなら、ムラユ語のjayaは勝利・成功・凱旋などの意味を持って
いるがkartaという語が見当たらず、ジャワ語として見てみるとkartaは繁栄を意味する語
だが、今度はjayaという語が見当たらない。スンダ語の場合は、jayaは優れた・強い・無
敵の・成功したなどの意味を持ち、kartaは豊かな場所/安寧の地を意味しているといった
具合になっている。

その一方でスンダ語が示しているように、サンスクリット語源のkarta/kerta/kertoはジャ
ワで「繁栄する土地」を意味する小辞として使われるようになったという解説にも出くわ
す。ジャワを中心にして各地にそれらの語が付けられた地名が続々と出現したことがそれ
を証明している。
Yogyakarta, Surakarta, Purwokerto, Purwakarta, Mojokerto, Kartasura, Wonokerto, 
Kertosono, Tanjungkerta, Kutai Kartanegara, Girikerto, Kartapura, Muliakarta..... 
と十指に余るありさまで、この要素を勘定に入れることでインドネシア人に一般的なJaya-
kartaの理解に到達できるようになるという寸法だ。つまり単語そのものはサンスクリッ
ト語源に間違いないのだが、ジャワで起こった用法の変化が言語形態に影響を及ぼしてい
る複合語だという理解が正確なところではないかと思われる。[ 続く ]