「おやつを食べる?羨望する?」(2019年10月09日)

ライター: マナド国立大学ドイツ語教官、リチャール・トゥウォリウ・マガグエ
ソース: 2019年9月24日付けコンパス紙 "Menganan Mengiri"

インドネシア語版聖書のイザヤ書にこのような文がある。
dan telingamu akan mendengar perkataan ini dari belakangmu: "Inilah jalan, 
berjalanlah mengikutinya.", entah kamu menganan atau mengiri.

そこに出現したmengananとmengiriの語にわたしは少々驚いた。ちょっと考えてから、
mengananがpengananから派生した語でなく、kananに由来していることが判った。
mengiriもiriでなくkiriに由来している。接頭辞me-の付けられたそれらの語はmenuju 
(pergi) keを意味していると解釈できる。

正直なところ、これまでさまざまなインドネシア語の文章を読んできたが、menganan
とmengiriという語に触れたのはこれが初めてであり、おまけにそれがインドネシア語
に訳された聖書の中だったのである。その翻訳作業にたくさんの言語専門家が関わった
のは疑いあるまい。


mengananやmengiriがあるのなら、menuju (pergi) ke tengahも可能なはずと思って調
べたところ、KBBI第四版にmenengahを見出した。mengatasも同様で、membubungや
naik ke atasという語義になっていた。ところがこの辞書にはmembawahが記されてい
ない。だからと言って、menuju (pergi) ke bawahの意味でmembawahを使うのがいけな
いわけでもあるまい。

方角に応用して方向を示すのはどうだろうか?その通り、KBBIにはmengutaraがあ
ってmenuju arah utara, berjalan ke utaraを意味し、またmenimurもあってmenuju ke 
arah timurの語義が付されている。ところがselatanにこの形の派生語は登場せず、ba-
ratにおいては基語自体が収録されていない。データ収集者だけで137人に上るこの
辞書編纂チームの全員が忘れてしまったのか。ともあれ、menyelatanもmembaratも、同
じ意味で使えるにちがいあるまい。

ではmenenggaraはどうだろうか?menenggaraはtenggaraの派生語の中に登場せず、timur
の派生語の中にtimur menenggaraとして示されていて、antara timur dan tenggaraの意
味と説明されている。


menuju (pergi) ke のパターン化は、空間(kanan, kiri, tengah, atas, bawah)や方角
(timur, barat, utara, selatan)ばかりでなく、時間(pagi, siang, petang, malam)に
も応用できる。

その時間への応用というのはKBBIに示されているのでなく、2019年7月7日付
けコンパス紙日曜版短編小説欄に掲載されたRギリヤディ氏の作品Hantu Pohon Gayam
に見られるもので、かれはその中でHari mulai memetang.という表現を使った。その作
品の文脈から、memetangはmenuju ke petangあるいはmenjadi petangを意味していると
解釈することができる。

それらを拡大してひとつのパラダイム(活用や格変化などすべての語形変化を示すリス
ト)を作ることが可能だ。そうすることでわれわれはsiangをmenyiang、soreをmenyore、
malamをmemalamという形にしてmenuju keという意味を持たせることができるのである。

ところでngamarという言葉をまだご記憶ではあるまいか?標準形はmengamarであり、
menuju ke kamarあるいはmasuk kamarを意味している。この小論で取り上げている
menuju (pergi) keの意味とピッタリ符合しているではないか。