「ジャカルタという名前の謎(終)」(2019年10月09日)

軍政監部は日本語が含まれている(A)の流れを取らないで(B)の流れを選択した。お
まけに根拠として挙げた史的事実はあまりにも不正確であり、悪く言うなら歪曲さえ感じ
させるものだ。

日本人になじみの薄いジャヤカルタという言葉をキーにして、それを音韻変化させた新語
を作り出すという思考作用を軍政監部の日本軍人が行ったというのは、実に奇跡に近いこ
とがらであるとしかわたしには思えないのである。


この謎に関わっているかもしれないもうひとつの史的事実として、わたしはジャカルタの
街の創設記念日に関心を抱いている。オランダ人がバタヴィア創設記念日の祝賀を行った
ように、ジャカルタのひとびとも創設記念日の祝賀を行うのが当たり前と感じていたのだ
ろう。

史的事実としてのジャカルタの誕生は日本人の発案創作という形になっており(軍政監部
はそれを日本人が持っていた古称をインドネシア人に与えるように表現しているが、そこ
には欺瞞が感じられる)、それを額面通り受け取るならジャカルタの創設日は1942年
12月8日となってしかるべきだろうと思われるにもかかわらず、インドネシア人はまっ
たく異なる態度を示した。ジャカルタという名称はそのまま引き継いだが、インドネシア
人はジャカルタの誕生をファタヒラによるジャヤカルタ建設の歴史に求めたのである。


日本軍に占領されるまで、東インドオランダ植民地政庁はバタヴィアをバタヴィア市Stad 
Gemeente Bataviaという行政ヒエラルキーに置いており、日本軍政も形式上それを引き継
いでジャカルタ特別市Jakarta Tokubetsu Shiという公式呼称に変えた。そしてインドネ
シア共和国も同じ内容のまま、それをKota Praja Jakartaに変更した。

1958年1月18日に中央政府はジャカルタ市行政を首長に移管して自治都市に変え、
ジャカルタ市の名称はKota Praja Jakarta Rayaに変化し、更に市のヒエラルキーから昇
格して州と同等に位置付けられるDaerah Khusus Ibu Kota Jakarta Rayaへの変更が19
61年に行われた。1999年以来、Propinsi DKI Jakartaという呼び名が国民の間で今
現在に至るまで使われている。

1953年から1960年までジャカルタの市行政を統率したスディロSudiro市長のとき、
かれはジャカルタ創設日がバタヴィアのそれと同じであってはならないと考えて、ファタ
ヒラによる「ジャカルタ」建設の日が1527年の何月何日であるのかを歴史家たちに調
査させた。ことほどさように、インドネシア人にとってはジャカルタとジャヤカルタが同
一視して違和感のないものと受け止められていることを明白に示すストーリーをわれわれ
はそこに見出すのである。

依頼されたモハマッ・ヤミンMohamad Yamin氏、スカント博士Dr. Sukanto、老練ジャー
ナリストのスダルヨ・チョクロシスウォヨSudarjo Tjokrosiswoyo氏などが献言を行う中
で、スカント博士はDari Jayakarta ke Jakartaと題する論文を作成提示して、ファタヒ
ラによるジャヤカルタ建設の日は1527年6月22日であるとの結論を答申した。それ
はもちろん博士の推論になるわけだが、スディロ市長は1956年6月22日にその議題
を市議会に諮り、満場一致の可決を見た。反論されるべき強力な根拠がひとつもないのだ
から、言い出した者が勝ちということだったのかもしれない。

それ以来毎年6月22日に、ジャカルタの創設記念祝賀は継続的に行われており、オラン
ダ植民地時代に行われていた物産見本市と夜市を兼ねた催事Pasar Gambirをジャカルタフ
ェアーという名前に変えて復活させ、それをジャカルタ創設記念に結び付けるようなこと
までなされている。パサルガンビルはガンビルの名が示す通りいまモナスとなったガンビ
ル広場で行われていたもので、ジャカルタフェアーも最初はモナスの中で行われていた。
今現在はクマヨランに移されている。


さて、軍政監部の日本軍人の発想とは考えにくい皇紀2602年12月10日の告知から
われわれは、史的事実を額面通り見ていては足元をすくわれることも起こりうるという学
習体験を得ると同時に、そこに行われた何らかの操作の様子もそこはかとなく感じ取れる
ように思えるのだが、どうだろうか?知恵者インドネシア人の黒い影がそのシーンに出没
しているようにわたしには思えてならないのである。[ 完 ]