「オランダ人英雄はイ_ア人にとっての極悪人(前)」(2019年10月14日)

Despereet Niet! 「絶望してはならない!」
1619年にジャヤカルタを滅ぼしてその跡地にオランダの街バタヴィアを建設し、蘭領
東インド植民地の父となったヤン・ピーテルスゾーン・クーンJan Pieterszoon Coen第4
代VOC総督のモットーがそれだった。

VOCが破産してオランダの国家が東インドをオランダ領にしたあと半世紀以上経過して、
1866年から1872年まで総督を務めたピーテル・メイヤーPieter Mijer第50代総
督の時に、クーンの業績を讃える銅像がバタヴィアホワイトハウスの表に建てられた。


バタヴィアホワイトハウスというのは、オランダ本国を支配下におさめたナポレオンが東
インドをイギリスに奪取されるのを防ぐために現地に送り込んだ腹心のダンデルスHerman 
Willem Daendels第33代総督がバタヴィア城市内からヴェルテフレーデンWeltevredenに
すべてを移転させる構想のもとに建設を命じた新総督官邸のことで、その壮大な建物はオ
ランダ語でHet Witte Huisと呼ばれた。つまり英語のホワイトハウスということになる。

しかしいざそれが1828年に完成した時、総督官邸として使うには経費がまかないきれ
ないという切実な問題のために蘭領東インド植民地政庁の大蔵省がそこを使うことになり、
長い時代を通してその伝統が続けられた。インドネシア共和国も開闢以来、大蔵省がその
建物を使用している。


バタヴィアホワイトハウスの表にはヴァーテルロープレインWaterloopleinと呼ばれる広
場があり、植民地時代にはヴァーテルローでの戦勝記念日にそこで軍隊のパレードなどが
行われていた。この広場は現在バンテン広場Lapangan Bantengという名前に変わっている。

ホワイトハウスの前に作られた台座からヴァーテルロープレインを見下ろし、右手の人差
し指を伸ばして地面を指差しながら「Despereet Niet! 」を唱えるクーンの姿は、艱難辛
苦を乗り越えてジャヤカルタの地を奪い取ったかれの心意気を具象化したもののようだ。
この場合、クーンのモットーは「諦めてはならない」のほうがふさわしいように思われる。

クーンの銅像が建てられたのは1869年のことで、ジャヤカルタが滅亡してからちょう
ど250年目に当たる。ところが日本軍政は1943年3月7日、クーンの銅像を台座か
ら降ろして粉々にしたという話になっている。台座から降ろすシーンは
https://www.youtube.com/watch?v=DektqMUgXEY
で見ることができるが、本当に銅像が粉砕されたのかどうかはわからない。

スカルノ大統領はヴァーテルロープレインの雰囲気を植民地時代から変化させようとして、
1960年代にバンテン広場の南部にホテルバンテンを作った。現在のホテルボロブドゥ
ルHotel Borobudurがそれだ。クーンの銅像は日本軍が既に破壊していたから、インドネシ
ア人がそれを行う必要はもうなかった。

ヴァーテルロープレインの西側にオランダ人が作っていたヴィルヘルミナパルクWilhelmina
parkに東南アジア最大のモスクを建設しようというアイデアが出されたのは1950年のこ
とで、1961年8月に着工され、G30Sの政変を経て1978年2月にスハルト大統領
が公開式典を行ってやっと実用に供されるようになった。

スカルノ大統領はジャカルタの街をバタヴィアが持っていた雰囲気から極力変化させたいと
考えていたらしく、このイスティクラルモスクMasjid Istiqlal建設のためにヴィルヘルミナ
パルクが消滅することは厭わなかった。上述のヴァーテルロープレインの変身もそれと同一
線上にある。

クーンの話に戻ろう。
クーンはバタヴィア総督として二度目の在任期間中、マタラム王国のバタヴィア進攻を受け
て防戦のさ中に没した。マタラム王国軍の攻撃が開始されてから三日目の1629年9月2
0日だという説もあれば、21日だとする説もある。

マタラム王国とバタヴィアの戦争については、拙作「バタヴィア港」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/hlabuvia.html
中の22.第一次バタヴィア出兵と24.第二次バタヴィア出兵をご参照ください。
[ 続く ]