「オトコのジハード」(2019年11月07日)

ライター: 平和の碑財団発起人、ノール・フダ・イスマイル
ソース: 2016年1月7日付けコンパス紙 "Jihad Maskulin"

2002年バリ爆弾テロ事件から2015年のクリスマス〜新年前の逮捕事件に至るまで、
テロリズム刑法犯罪の主犯や容疑者たちのほとんどすべてが男性だった。ところがこの暴
力の根の分析に際して頻繁に抜け落ちているアスペクトがある。つまりジェンダー面から
の視点だ。

今こそわれわれは、どうしてすべてが男性なのか、と問うべき時だ。男性観に関する言説
から見て、かれらに顕著な男性的要素とはどのようなものなのか、またその結果としてど
のように暴力実行者が継続的に再生産されるのだろうか?


ジェンダー検討における基本的アスペクトのひとつは、宗教テキストの解釈に優勢で影響
力を持つ性別だろう。たとえばジハードに関する教えを取ってみても、男性と女性では意
味と影響が大きく異なっている。ジハード行為は常にスペシフィックなニュアンスで把握
され、広範に受け入れられる文化と特定社会意識のコンテキストの中で実践される。たと
えば解釈学研究において、ジハードコンセプトは往々にして「優秀な男性」カテゴリーと
密接に結び付いている。言い替えれば、「優秀な男性」の地位に到達するためにムスリム
男性は戦闘能力、巧みな武器の使い方、力による勝敗をいつでも行う用意があるといった
ファクターが要求されているのである。

そのような観念がジャマアイスラミアやその分派コミュニティの中で育まれている。戦場
でジハードを行うために自己を作り上げている(あるいは作り上げた)男は、コンネル
(Connel, 2005)の術語を借りるなら、宗教教義を研究しているだけの男subordinate mas-
culinityよりも優れた男hegemonic masculinityの位置に置かれる。自分が「優秀な男性」
であると主張する者たちはジハードを行おうとしない者たちをqoidunと呼んで蔑むのであ
る。アラブ語でのその意味は、ただ座っているだけの(行動しない)男ということだ。

男らしさというファクターを前面に押し出したシンボルの使用はダエシュ/ISISのソスメ
ド、特にユーチューブに登場するプロパガンダに見ることができる。たとえばかれらが戦
争の状況を解説する際にhadza ardhul rijalという言葉が選ばれる。「これは男たちの世
界だ」というのがそのアラブ語の意味だ。それは視聴者に断固たるメッセージをもたらす
のである。「この世界にいないあなたは、真の男ではない」。

真の男になろうというメッセージが16〜26歳の年齢層の男性に的中してかれらをダエ
シュ/ISISのような暴力集団に参加するべく駆っている現象の答えがきっとそれなのだろ
う。マイケル・キンメルは著作「ガイランド:少年が男になる危険な世界(2008年)」
の中で、少年が成人男性になる移行プロセスに関して米国の16〜26歳の男性4百人に
インタビューした結果を詳述した。その年代こそが自分の男らしさの本質に対する不安に
呑み込まれている時期であることをかれは発見している。

そのキンメルモデルの枠組みが示すように、「ダエシュ/ISISに参加しなければ男じゃな
い」と蔑まれるのは、たとえソスメドが投げかけて来るだけだとしても、痛みをもたらす。
親からの指導が不在だったり、コミュニケーションが途絶えていたり、あるいはソスメド
の強烈な影響に曝された結果、かれらはダエシュ/ISISに参加して自分が男であることを
実証しようとするのである。

< 対抗アイデンティティ >
皮肉なことに、男の本性はアグレッシブだ。アグレッシブ傾向はジハード観念に押されて、
真理の名のもとに暴力行動の扉を開く。この理解におけるジハードは、勇気・男らしさ・
自尊心を表現するための宗教的基盤を提供するものになる。

その上で、米国・ユダヤ・資本主義が抗争しなければならない現代異教イデオロギーの単
なる実現形態を超えた対抗アイデンティティの権力集積であり、もっとスペシフィックに
それを言うなら、男であることを競う対抗者と位置付けられることになる。それゆえにジ
ハードは単なる宗教守護のための規範的教えのみならず、宗教上で正当化される力による
勝敗を決着させるべき伝統的行為にもなっている。


ならば、女性や子供の役割はどこにあるのか?
ダエシュ/ISISに参加するためにシリアに向かう人々の中に女性や子供たちが含まれてい
るという最近の現象は本当のことだ。1980年代半ばから2000年代にかけてダルル
イスラムやジャマアイスラミアがイスラム活動家をアフガニスタンやフィリピンのモロに
送り込んだ時代には見られなかった新現象である。今年トルコ政府は187人のインドネ
シア国籍者を強制送還した。その中の24%が女性と子供だった。その中にラモガンLamo-
ngan出身の成人女性がいる。38歳のかの女は7人の子供を連れて、先にシリアに入った
43歳の夫の後を追った。夫はラモガンのイスラム守護戦線FPI上がりの活動家で、既
にダエシュ/ISISに加わっている。

ところがかの女は前線からはるかに離れた後方に置かれただけで、夫と共に暮らすことな
ど思いもよらない待遇を与えられた。最前線が男の世界であるという構造を支えるための
当然の帰結がそれだった。勝利の野望・交戦・聖なる死を通してジハードが実践される戦
場から女は遠く離され、主役になる機会をつかむことはまず望めない。

この男らしさというのは、男だけにとってのプロジェクトでなく、女にとってもそうであ
るにはあると言える。たとえばパレスチナ人の母親は自分の子供のひとりがイスラエル兵
の蛮行に抵抗して聖なる死を遂げた時、強い誇りを抱くのである。ダエシュ/ISISに参加
して戦没した52人のインドネシア国籍者の中には、アフガニスタンでの戦歴を持つ親の
子供も混じっていた。2002年バリ爆弾テロ事件犯人イマム・サムドラの子供もそうだ。

子供がシリアでの戦争の渦中に巻き込まれたのは、父母が家庭の中で子供に与えた価値観
と無縁でない。もし国が、宗教指導者が、社会の有力者が、運命に翻弄されている子供た
ちを本気で抱き留めてやらないならば、ダエシュ/ISISに加わった夫との合流に失敗した
妻がその子供たちに、いったい何を教えることになるのだろうか?