「誤った男性観女性観」(2019年11月11日)

ライター: バリ在住フランス人芸術研究家、文化人、ジャン・クトー
ソース: 2017年10月29日付けコンパス紙 "Maskulinitas yang Keliru"

すべての男性諸氏よ。あなたの行動を律する精神傾向が次のいずれであろうとも。「わた
しの目はあなたの目に答える。わたしの指はあなたの指に触れる。わたしの胸の高鳴りは
あなたの胸の高鳴りと出会い、あなたはわたしとともにひとつのわれわれと化す。あらゆ
るしるしが時を超え、究極のひとつの魂、ひとつの呼吸、ひとつの肉体に結実する」とい
う優しきフィーリング派なのか。

それとも「わたしの目はあなたの視線に動じない。わたしはあなたの胸で高鳴る恐怖の鼓
動を聞く気はない。たとえあなたが自分を無理強いして行う、わたしの肉体との合一にま
すます嘔吐感をつのらせているとしても。」という強さと力の信奉派なのか。


それが男と女の関係に絶えずつきまとう、性欲に関わる野蛮と非野蛮の弁証法である。女
に対する野蛮性が昼夜の区別なしにつきまとうことも稀でない。ところが奇妙なことに、
男女の基盤におけるそのようにいびつな関係が日常生活での普通の現象と見なされている。
世界にあるすべての文明でそうなっているからなのだろうか?

いずこの文明であれ、常に社会的あるいはモラル的に義務付けられ、心理的物理的に強制
されて、女性は男性の性的要求を受け入れなければならないポジションに置かれている。
路上での口笛に始まり、意図をほのめかす軽いタッチから意図を明白に告げるわしづかみ、
そして「ノー、いやよ!」という拒絶のうめきを常に「イエス」と解釈するさまざまな強
制に至るまで。おまけに小さい誘惑に慣れてしまった純朴な女は強制者のわいせつな罠に
落ち、手遅れになってはじめて気が付く。一方、粗野な男はあたかも威勢の良い雄鶏のご
とく、交わった女の性欲を満たす絶倫の能力が自分にあると確信している。

性暴力現象はさまざまな手口と文化的社会的バリエーションを伴って、世界中に存在して
いる。アメリカ映画に見られるバリエーションでは常に、女性は半強制的に扱われてわが
身を委ねる。中東のバリエーションは、被害者になったあとでかの女は往々にして、自分
をレープした男の妻になるよう強いられる。バリ式の女性獲得法は、騎士のやり方だそう
だが、女性を無理やりさらって妻にすること。その他数え切れないほど多くのバリエーシ
ョンが単一の目的のために存在している。疑う余地のない証言や明白な傷跡といった証拠
があがったとき以外、男性は法的措置を免れる。社会的制裁をも含めて。

性的攻撃性は天賦のものとして常に容認される。女の方が誘ったのだ。ほほえみで、ある
いはミニスカートで。女が悪い。レイプや性暴力事件として世の中に浮かび上がっている
ものはわずか10〜15%だけというのが現代世界の常識になっている。そんな絶望的な
状況の中で、男には負けて当然という姿勢が女性心理の本源的な部分に培養されるのは何
ら不思議なことでない。反対に男の方は、学友や同僚に対する大言壮語によく見られると
ころの女を征服する豪傑ぶりが、繊細な人間も含めて男性心理の本源的な部分に培養され
る。

このジェンダー悪循環から脱け出すのはたいへん困難だ。あたかも性的荒っぽさが男にと
って持ち前のものであり、わが身をゆだねるのが女性の属性であるというのがその観念で
あり、そのジェンダー役割に従おうとしない男女は「マチョじゃない」「フェミニンじゃ
ない」等々と蔑まれのが普通になっている。


しかしそんな闇の中にあっても、小さな希望が皆無だというわけでもない。最近、米国映
画界の大物のひとり、ハーヴェイ・ワインスタインの犯した性暴力に関する記事がニュー
ヨークタイムズに掲載された。その記事に追随して、数十人の女性がワインスタインの性
暴力を明らかにする抗議行動を起こした。その運動は更に飛び火して、数十人の社会的著
名人が犯した性暴力を告発する大合唱へと発展した。いまや米国では#metoo、フランスで
は#balancetonporcの付けられた性暴力ストーリーが数万人の女性たちによって語られ、
男らしさのパラダイムを変更せよと迫っている。十分はもう十分だ、とかの女たちは要求
している。

だが、あなたたちインドネシア女性よ。あなたたちはいったいいつになったら口を開く勇
気を持つのだろうか?モラリスト連中に悪者にされるのがまだまだ怖いのですか?