「白豪主義を破滅させた日本軍(前)」(2019年11月11日)

1942年3月5日に日本軍の艦砲射撃を受けたバタヴィアからオランダ軍はバンドンへ
移動し、バタヴィアは非武装都市を宣言した。それから三日後の3月8日にオランダ植民
地政庁トップのチャルダ・ファン・スタルケンボルフ・スタホウエルA.W.L. Tjarda van 
Starkenborgh Stachouwer第64代総督は日本軍に無条件降伏した。「われわれはここま
でで終わりにする。もっと良き日に再会しよう。女王陛下万歳!」というのがかれの最後
の声明だった。

45年世代のひとりハリッ・ラシャディは日本兵がバタヴィアに姿を現わした時のことを
次のように書き残した。
夜になってからハヤムルッHayam Wuruk通りに、自転車に乗った日本兵が何百人もやって
きた。そこにはバタヴィアレシデン区の役所があったのだ。日本兵の到着が口伝えでバタ
ヴィアの隅々にまで広がった。わたしはサンダルを履いてハルモニHarmonieへ出かけ、た
くさんの市民が口々に叫んでいる姿を目撃した。「Hidup Indonesia!」「Hidup Inodnesia
Merdeka!」「Hidup Dai Nippon!」
わたしの近くにいた華人プラナカンperanakanの男は熱烈な口調で叫んでいた。「Hidup 
Asia!」「Asia untuk bangsa Asia!」・・・


実はその時代、ハヤムルッ通りという名称はまだ存在せず、その通りはオランダ語でモー
レンフリートオーストMolenvliet Oostという名称になっていた。名称の変更が行われた
のはインドネシア完全独立後の1950年で、ハヤムルッ通りの名はその年の10月に他
の29の通り名称と共に変更された。

ともあれ、日本軍の到着がプリブミに大歓迎された図がそこに出現したということだ。そ
の図は三年半の軍政期間中に急速に色あせて行ったのだが、その図を見てインドネシア人
プリブミのすべてが日本軍の到来に狂喜乱舞したと思った人は、観念的レッテル思考の病
弊に侵されているに違いない。インドネシア人という集合名称を構成している人間は千差
万別なのであり、日本軍の到来によって蘭領東インドからオーストラリアに脱出したイン
ドネシア人プリブミも、決して少ない数ではなかったのである。その数が5千人を超えた
と言えば、ひとは驚くだろうか?日本軍の到来を歓迎しなかったインドネシア人プリブミ
は、植民地軍兵員・船員・下級役人・民間人・そしてそれらのトアンに仕える女中下男な
どがメインを占めたが、中にはニューギニア島のボーフェンディグルBoven Digoelに流刑
されていた政治犯を蘭領東インド植民地政庁がオーストラリアの抑留所に移したケースも
ある。


オランダ植民地政庁は東インドからの脱出を希望する数千人ものオランダ人、オランダイ
ンドネシア混血者、インドネシア人プリブミをオーストラリアに移送した。1942年3
月9日以降も、脱出行動が可能な場所で脱出の波が継続した。広大なインドネシアのすべ
ての海岸線と飛行場をすぐさま日本軍が監視できるようになったわけでもなければ、オラ
ンダ植民地政庁が降伏したからと言って自助努力を放棄するような精神構造の人種ばかり
でないのは、言うまでもあるまい。

植民地政庁の助けを受けず、自力でオーストラリアへ脱出したインドネシア人プリブミも
いた。オーストラリアにたどり着いた最も古いボートピープルは、およそひと月足らずの
航海の果てに1942年4月にメルボルン港に粗末な船でやってきたジャワ人だったので
ある。もちろん、その当時boat peopleという言葉はまだ存在しなかったのだが。

67人のジャワ人は、男は艶やかな色彩のサルンの背にクリスを差し、ブランコンを被っ
た盛装で、女はカインクバヤに身を包んで、乗ってきた船から上陸してオーストラリアの
土を踏んだ。女たちの中には乳呑児を抱えた者も混じっていた。

日本軍の蘭領東インド侵攻が引き起こしたインドネシア人移住者の波が、オーストラリア
の唱えていた白豪主義を突き崩す役割を果たしたという見解を表明するオーストラリア人
歴史家もいる。黄禍の恐怖に揺さぶられた白豪主義が、押しかけてきた茶色い肌の移住者
を前にして湧き上がる人道主義に座を譲り、国連でインドネシアの独立を支援するまでの
変化を遂げてしまったのである。だからと言って、閉鎖的レイシストだったオーストラリ
ア人を昨今の寛容な民族に変心させたのはわれわれだと胸を張る日本人もいないだろうが。
[ 続く ]