「文学に見るオトコの世界」(2019年11月19日)

ライター: 小説家、エッセイスト、アニンディタSタイフ
ソース: 2016年9月10日付けコンパス紙 "Bahasa Maskulin dalam Sastra"   

サンドラMギルバートとスーザン・グーバーはエッセイ『屋根裏の狂女』の冒頭に「ペン
は比喩的男性器だろうか」という質問を開陳した。二人がその質問を提示したのは、男性
作家が作品の中に示すマスキュリニティ(雄性=男であることの本質)を明らかにするた
めだ。中世初期からヴィクトリア朝までの文学作品にふたりが試みた分析によって、男性
作家たちの書いた文章から、あたかも神がわれわれの父であるかのごとく、いかに自らを
父の座に据えたかということの実態が明らかにされた。

文学の世界において男性作家が自らを全能なる父の座に据えたという見解は、どこから得
られたものなのだろうか?語法dictionがその最大のカギだった。ひとりの作家にとって、
文章の中で行う言葉の使い方の選択には、必ず理由がある。意識しているか否かにかかわ
らず、作家の行う言語上の選択はイデオロギーの選択なのである。世界で父権主義が威勢
を誇っていた時代、それは言葉に影響を及ぼした。

誰であれ言葉をマスターした者は、話題の中心に座している。デール・スペンダーは著作
Man Made Language(ことばが男を支配する―言語と性差)の中で、シルヴィア・ウォル
ビーが2014年に引用したごとく、言葉は父権主義イデオロギーによって構成されてい
るもの、つまり男によって男のために作られたものであると説いた。かの女は英語の三人
称代名詞に使われるmanという単語を例に引き、その者の性別が男女いずれであろうと、
言い換えればheとして確定していない時点で、manという言葉が使われることを指摘した。

オルバ期のインドネシアにおいては、女性を意味する公式単語としてwanitaが用いられた。
フェミニスト層はワニタの語が女性への蔑称であると解釈した。ワニタという語はジャワ
語wani ditoto(インドネシア語でberani ditata/atur)を意味するwanitoに由来してい
るとされたためだ。現に社会政治面で、オルバレジームは女性を男性の権力によってコン
トロールされる(ditata oleh kekuasaan laki-laki)ものという位置に置くことを望んだ
のである。

言葉が父権主義イデオロギーから離れられないものである場合、作家がその文学作品の中
で選択する語法は単にその作家の言語能力の優秀さを示すバロメータであるにとどまらず、
本人がどれだけオトコイデオロギーに捕らえられているかを映し出す物差しの役割をも果
たすのである。その作家のポジションがどれほど父権主義的なのか、つまりジェンダーセ
ンシティブの度合いがどうかということがそこに浮き彫りにされる。

< 金てこ、蛇 >
散文に使われるオトコ言語をどのようにして見分けるのか?一番簡単なのはミソジニ作家
の作品を学ぶことだ。ミソジニ作家にとって女性は最低レベルの他者である。たとえばニ
ーチェ。大作「ツァラトゥストラ」には女性を貶める語法が使われている。その中には「
危険なる玩具として女性を欲望する」という文がある。そこでは女性が玩具視されている。
誰のための玩具か?オトコのためであるのは言うまでもあるまい。

ニーチェはツァラトゥストラの中で女に関して「兵士のための慰安として」とも書いてい
る。女は男を主人として仕え、男を楽しませて慰安を与えるためのものにされているのだ。
ニーチェが使った言葉や語法を見る限り、かれは明らかに父権主義的作家としての姿を示
している。

描かれた女性の姿のありさまに加えて、男性作家が性器を描写する際の表現からもオトコ
言語を見つけることができる。父権主義の世界において男性器は女性に対する優位を確定
する雄性のシンボルとして中核の座を占める。男性器がしばしば、異性を支配し、打ち負
かし、あるいは少なくとも従順にさせる力を持つものとして持ち出されることは不思議で
ない。その実態はニルワン・デワント作品、詩集Buli-Buli Lima Kakiの中に容易に目に
することができる。

その詩集の中で男性器表現のために選択された単語のひとつは金てこである。「金てこは
固くなり、おし黙った」
別の箇所では、男性器表現のために闘鶏の鶏の脚に取り付けられる刃物タジtajiが選択さ
れた。「しかしオレのタジがもっと頻繁にオマエの口を研いだ」
そして「オマエを狙い慣れた象の鼻」が登場し、象牙までもが出現する。「つまりガウン
の内側を掘りたがる象牙だ」

それらのアレゴリーはすべて、女である最低レベルの他者を打ち負かすために使われるそ
れらの物や道具がいかに男性器と変わらないものかということを示すために作者が意識し
て選択したものだ。ニルワンが父権主義的思考パターンを信奉する作家であることが、そ
こから明らかになる。男性器を表現するためにニルワンが選択した語法はたいへん男性的
である。父権主義的視点を多く取り上げているニルワンの詩集に対する広範な批評はMema-
sak Nasi Goreng Tanpa Nasi(2014年)と題する書籍で読むことができる。興味深い
のは、かれの雄性表現に満ちた詩集が2011年にハトゥルイスティワKhatulistiwa文学
賞を受賞したことだ。そのできごとは文学界が、優秀さの評価の中にまで、いかに濃厚に
雄性に覆われているかを示している。

目覚めている状態で行われるセックスにおいてのみならず、眠っている女が抱く強い雄性
を持つ男性器への願望を、別の男性作家は描いている。われわれはその種の実例をエカ・
クルニアワンの小説「Seperti Dendam Rindu Harus Dibayar Tntas」(2014年)に見
ることができる。

かれは男性器を大蛇と表現する。その雄的表現は、男性の視点から見た完ぺきな雄性のシ
ンボルとして著者が意図的に選択したものである。蛇のように長く、そして大きいのだ。
まるで安物精力剤の宣伝文句ではないか。その大蛇のような男性器が小説の著作者によれ
ば、女が熱望し、夢にまで見るものなのである。女に最大の快楽を与えるセックスに関す
る男性作家のイメージが女に押し付けられている図がそこに浮かび上がってくる。言い換
えるなら、雄的思考パターンが一見妥当な語法を通して挿入されているのだが、その裏側
にはイデオロギーメッセージが秘められているのである。

ニルワンと同様にエカも、父権主義ファンタジーの持っている「男性器の完ぺき性が大き
さによって定まる」という神話にまとわりつかれている。散文における語法の選択を通し
て挿入される雄性イデオロギーはたいへん繊細であり、簡単に指摘できるものでない。そ
の方法は大勢の読者の目をくらまし、意識されないままかれらの間にその思考パターンが
形成されていく。文学書を読む際、その点に関してわれわれは大きく目を見開かなければ
ならないのである。特に、蛇に欺かれ、何世紀にもわたってアダムの影にされることを厭
わなかったイブの二の舞を望まない女性読者であるならば。