「反復語の重要性」(2019年11月21日)

ライター: 国語学者、著述家、サロモ・シマヌンカリッ
ソース: 2011年4月8日付けコンパス紙 "Seolah Iptek"

ある雑誌編集者がiptekという語に反対を唱えた。オルバ期に盛んに作られた短縮語に吐き
気を催しているからではなくて、かれによればそれは言葉の無駄遣いだと言うのである。

iptekとはilmu pengetahuan dan teknologiの短縮語だ。かれは言う。
「ilmuとpengetahuanは同義語だ。同じ意味の言葉をなんで並べる必要があるのか?わたし
はitekにするべきだと思う。ilmu dan teknologi。そこに無駄なものはない。」

インドネシア語に関するわたしたちの開けっぴろげな会話から、ilmu pengetahuanという
のが反復語の一種であることにかれは気が付いていないのではないかとわたしは推察した。

同じ言葉を繰り返す反復語でなく、同義語を組み合わせてバラエティを示す手法だ。ilmu 
pengetahuanというのはilmu-ilmuにほかならず、tutur kataがkata-kataと同義であるのと
同じことなのだ。これは新発見なのではなく、ヌサンタラの諸語が持っている反復語の豊
かさの活性化に過ぎず、ヌサンタラの域外にある諸言語に多分見られない特徴である。

natural scienceにわれわれはilmu alamでなくてilmu pengetahuan alamという訳語を当て
はめた。ilmu pengetahuan alamには天文学・生物学・物理学・化学などが含まれる。

social scienceにわれわれはilmu pengetahuan sosialという訳語を当てはめた。そこに含
まれるのは大学のFISIP(社会学政治学部)に属す諸分野だ。この点において、ilmu sosial
はsociologyに、ilmu alamはphysicsに対応させることができるだろう。

ジャーナリストやコラムニストが最近、無意識のうちに反復語を抹殺してインドネシア語
の豊かさを狭めている行為が増加している。わたしが新聞で見つけたいくつかの例を下記
してみよう。
(1) Toleransi seakan menjadi penting hari-hari ini ketika kebinekaan bangsa 
terancam dan tercabik.
(2) Pidato itu merupakan kecelakaan fatal atas sebuah kepemimpinan seolah 
presiden tak berani menghadapi dua partai politik yang dianggap balela.
(3) Sederetan panjang pohon yang dulu jadi paru kota ditebang di Jalan Sudirman 
demi jalur bus Transjakarta.

これまでseakanもseolahも、そんな形の単語はインドネシア語にもなければムラユ語にも
なかった。インドネシア語話者に広く知られているものはseakan-akanやseolah-olahなの
である。その両者は副詞であり、たまたまsepertiと同じ語義になっている。

paruも同じだ。標準インドネシア語文法第三版編者によれば、andang-andangやusar-usar
と同様に、paru-paruは人体器官のひとつを示す形態素の反復形なのである。ひょっとし
たら筆者は学生時代にワルテッwartek=warung Tegalの常連だったのかもしれない。そこ
ではparu gorengやparu semurといったasam urat罹患者予備軍のためのメニューが知られ
ている。

新聞が持つ必要性に応じて語数の簡素化を名目に反復語が抹殺されるのを、われわれは容
認することができない。文章作りのペンの冴えを研ぎ澄まそうとしない筆者が言葉の無駄
遣いをして紙面スペースをつぶしていることが頻繁に行われているのだから、そのような
姿勢は間違っているのである。

そのために、反復語に2を用いる表記法を復活させるべきだとわたしは考える。
ke-belanda2an, mata2, se-akan2, tumbuh2anというような表現だ。新聞紙面のスペース
節約になると同時に、コンピュータのワープロプログラム作成も難しくない。数字の2が
文中に登場するのは、世界の諸言語の間でヌサンタラ諸語が持つ大きな特徴になるのであ
る。