「知性欠乏方式の語形成」(2019年11月25日)

ライター: 文司、アヤトロハエディ
ソース: 2003年3月8日付けコンパス紙 "Buruan, Buron, Buronan"

テレビラジオで読み上げられる口頭のニュースでも、あるいは新聞雑誌に書かれた文筆記
事でさえも、次のような文章にわれわれが出会う可能性は必ずあるにちがいない。
Setelah buron dari penjara, ia menjadi buronan polisi dan diburu ke mana pun ia 
lari dan bersembunyi.

KBBIはburuの語義をmengejar atau mencari (binatang dalam hutan)と記している。
一方buruanの語義は、(1) binatang yang diburu, (2) orang atau penjahat yang dicari 
polisi untuk ditangkap, としている。

buruという語彙からburonという単語が、(1) orang yang (sedang) diburu (oleh polisi), 
(2) orang yang melarikan diri (karena dicari polisi), という語義で作られた。とこ
ろがなんと、buronan はburonと同義語になっているのだ。

厳格な表明がなされているわけではないのだが、buronという語はジャワ語化あるいはス
ンダ語化のプロセスを経たものであるにちがいない。元々のムラユ語あるいはインドネシ
ア語はburuanであり、/u/と/a/の音がつながったとき/ua/が/o/に変化するのがジャワ語
やスンダ語の音韻変化システムであるがために、それが起こった。たとえばkeratuanが
keratonに変化し、keprabonがkeprabuanからできたような例と同じだ。

もしそうであるなら、buruanとburonの語義は同一であるはずだ。ところがKBBIはそ
の二語に少々異なる語義を与えている。buruanは動物(狩りの対象になるなら何でもよ
い)にも人間(警察が逮捕するために追いかけまわす悪人)にも使われるが、buronは人
間(悪人)にしか使われない。

それら三語の中でburonanという言葉がいちばんはっきりしない。buronと同義語だと言
うのなら、何のためにこの単語が出現して来たのか?接尾辞-anが付こうが付くまいが同
義語なのだ。-anを付ける必要がどこにあるのだろうか?

buronanはburonに接尾辞の-anが付けられたものだという説明を聞かされたら、ますます
訳が分からなくなるだろう。buronとはburuに接尾辞の-anが付けられたものなのだから。
つまりburonanというのは基語のburuに接尾辞-anがダブルで付いているものということ
になる。buru-an-anだ。節約を旨とするべく、このような無駄を飼育するのはやめた方
が良い。

それが起こったのはジャワ語の影響であり、上意下達の権力構造がそれを引き起こしたと
見て間違いあるまい。たとえばジャワ語にtataという語がある。語義はインドネシア語や
スンダ語と同じでtata, aturだ。ところが接尾辞-anが付けられたとき、出来てきたのは
tataanでなくてtatananだったのである。

その出現には権力構造がからんでいた。最初にtatananを口にしたのが時の大統領スハル
トだったのだから。それを聞いたすべてのひとが法則を逸脱していることに気が付いたも
のの、間違いを指摘して訂正させるよう独裁者に直言する勇気を持った者がいなかった。

それどころか、その誤形態をみんなが使用するようになった。国語の正しい使用を道案内
するべき国語専門家までもがその尻馬に乗った。

たいていのジャワ人はribuanをジャワ語で言う場合にewonを使う。ribuはewuであり、
ribuanはewuan、すなわちewonだ。ところがジャワ人がribuanとかberibu-ribu
を言いたくなると、ewonで用が足りるはずなのにewonanと言い出す。そしてそのジャワ人
がインドネシア語でberibu-ribuを言おうとするとき、かれの口を衝いて出て来るのは
ribunanだ。インドネシア語もスンダ語も-nanという接尾辞は持っていない。それがある
のはスハルト大王のジャワ語だけなのである。この誤動作はtatananとribunanを最期にし
て、生き永らえることのないようになってほしい。

同じように、buronがburonanという派生語を持つようなこともありうべきでない。そもそ
も形態に違いがあるというのに、語義がまったく同一なんて・・・・