「翻訳者は国民の知性を磨く(後)」(2019年12月06日)

インドネシアのキリスト教社会で一般的な用語を翻訳者は把握しておらず、おまけにその
分野の専門家の校正すら経ていないように見える。翻訳者の当てはめる訳語が一般的な単
語になる傾向はそこに原因があるにちがいない。こうしてジブランの作品に込められてい
る文化的哲学的内容がインドネシア語版に適切に反映されない状況が生まれることになっ
た。神学用語が正しく使われていないために、読者はあちこちで引っかかることになる。

一般の哲学書も似たようなもので、内容自体の理解が難しいことに加えて、翻訳文がその
内容を分かりにくくしているのである。

ラビンドラナッ・タゴールRabindranath Tagoreの作品(短編集)の翻訳は、やっつけ仕
事にされたようだ。文章が流れず、タイプミスも諸所に散らばっているため、まるで素人
の作品のようで読みづらい。翻訳とは単に単語を置き換えることでなく、そこには芸術的
要素が存在しているため、翻訳作業がいかに難しいことであるかをわれわれは知っている。

翻訳者は原作に盛り込まれた作者の意図をつかむ力に加えて文章の構造と法則をわがもの
にする能力に優れていなければならず、その力を駆使して別の言語にその内容と言葉の密
接な関係をかれは構築していくのである。原文に使われている単語に対応する訳語の選定
は文化・作家のスタイル・その言語が持つ特徴などに関係しているにちがいない。たとえ
ば原文の中にインフォーマル単語が使われていれば、その文の翻訳は、意味を寸分変化さ
せることなく、インフォーマルな雰囲気を漂わせるものにならなければならない。


いま世界中で、もっとも新しく、もっともたくさんのひとびとに観賞され、楽しまれてい
る翻訳はキリストの苦難を描いた映画The Passion of the Christ(日本語タイトルはパ
ッション)だが、インドネシア語翻訳はまったくわれわれを落ち着かなくさせてくれる。

翻訳者は自分の知識の分量に合わせて翻訳したのだろう。文化的なコンテキストやキリス
ト教徒を取り囲んでいる環境への斟酌がまったく感じられない。

たとえば翻訳者はBapaとAyahという訳語を取り換え引き換え使っているのだが、世の中は
そうなっていない。普通、神を呼ぶときにキリスト教徒の社会で使われているのはBapaで
あり、Ayahではないのだ。聖書の章句すら英語から自分なりに翻訳されていて、インドネ
シア語版聖書にはKasihilah sesamamu.となっているにもかかわらず、Kasihilah tetang-
gamu.と訳されている。このような決まり文句に関しては、キリスト教徒社会で既に定着
している公式翻訳の存在を忘れるべきでない。これは映画の字幕に使われた翻訳の一例だ。

< ノーベル賞作家たち >
ノーベル文学賞作品の翻訳出版努力は賞賛に値する。Gao Hingjian(高 行健)作のGunung 
Jiwa(霊山)、Rabindranath TagoreのYang Hidup dan Yang Mati(短編集)、Salman 
Rushdie(サルマン・ラシュディ)のRambut Sang Nabi、VS Naipaul(ナイポール)のSe-
buah Rumah untuk Tuan Biswan。最後の作品はヨグヤカルタとジャカルタの二カ所で出版
された。同一の翻訳者で編集者は別だが、編集結果はほとんど同じ。そして価格が大違い。

どんな出版プロセスになっていたのだろうか?ともあれここでは、わたしはいくつかの名
前を挙げているだけだ。

優れた文芸作品は現世代ならびに次世代にとっての読み物になってしかるべきだ。この努
力は民族の知性を高めて聡明な国民を育てることにつながるから、われわれはいつまでも
経済と信仰の分野で落ち込んでいる必要もなくなる。われわれはしっかりした翻訳者たち
を必要としている。そして出版社も必要だ。理想主義的で、しかも大衆志向の出版社を。
[ 完 ]