「嘆きのモロタイ島(2)」(2019年12月10日)

ポップス界の名曲を次々と世に送った作曲家で歌手でもあるメリー・グスローMelly Goes-
law(またまたoe = u)の父親メルキー・グスローMelky Goeslawも自作自演のポップス歌
手だった。

1947年モロタイ島生まれのメルキーは、連合軍が残して去った軍事機材に囲まれて成
長したにちがいあるまい。弾薬・手りゅう弾・爆弾などの暴発や、周辺海域防御のために
設置された機雷のために、生命を落としたモロタイ島住民はどのくらいいたのだろうか?

2005年にジャカルタのメディア界がメルキー氏とモロタイ島の将来について討論した
ことがある。そのときメルキー氏は米国への非難を公にするべきだと述べた。自分にでき
るのは歌で非難することだと言って、かれはその場で数行の歌を作った。ふたりの青年漁
民が機雷に触れて爆死したストーリーを物語るその曲にかれは「嘆きのモロタイMorotai 
Menangis」というタイトルを付けた。その曲が完成していたのかどうか不明だが、かれが
ガンで死去した2006年までに出版された形跡はない。

連合軍はモロタイ島基地防衛のために、ハルマヘラ島東岸のカオKao湾やマリフッMalifut
湾から出撃してモロタイ島に逆上陸しようと努めた日本軍の進路を妨害するべく、海に機
雷を並べた。その機雷はいまだに生きていて、モロタイ島の漁民の命を奪っている。

その機雷による事故が起こらないようにする責任が連合軍、ひいてはその中核をなしてい
た米国にあるのではないか、というのがメルキー氏の意見だったようだ。「戦争だから仕
方ない」はモロタイ島住民に通らない話のようだ。


いやいや、そうではあっても、決して悪いことばかりでもなかった。連合軍はモロタイ島
に舗装道路を作り、蘭領東インドのどこにも見られなかった米国やヨーロッパの新車を大
量に持ち込んで、島内を走り回った。連合軍の建てた病院は原住民に無料で医療サービス
を提供した。こちらの文明は原住民を大いに喜ばせた。

マッカーサー司令官はもちろん、蘭領東インドの領土を使うことに関連してオーストラリ
アに作られたNICA(蘭領東インド文民政府)をこの作戦に巻き込み、東インド植民地
軍分遣隊を伴って進出してきていた。原住民に対する統治行政がかれら植民地軍の責務で
あり、およそ350人の原住民が連合軍への協力に誘われて、日本軍に関する情報の収集
や陸上海上でのパトロール隊の道案内などに従事した。

基地やインフラのための建設工事に必要とされる労働力の補給に原住民も声を掛けられた。
それに応じて米ドルの報酬を手に入れたひとびとも少なくなかったようだ。


ニューギニア島のホランディア(今のジャヤプラ)を攻略してオーストラリアからそこに
南西太平洋地域司令部を移したマッカーサー司令官は巡洋艦ナッシュヴィルに乗船してモ
ロタイ島進攻軍に同行し、モロタイ島を占領するとそこに居ついてしまった。つまり司令
部がそのままモロタイ島に移ったということになる。

マッカーサー司令官はダルバ港から、三つ並んだ島を抜けて3.8キロの距離にあるスム
スム島Pulau Zum-Zumに住居を建てて住んだ。そのためスムスム島は今だにマッカーサー
アイランドとも呼ばれている。

司令官の宿舎には可能な限りの便宜が図られて、地元歴史家の談によればスムスム島とモ
ロタイ島の間には舟橋がかけられ、またモロタイからスムスムに真水を送る海底パイプも
設けられたそうだ。送水パイプはともあれ、そんな距離に舟橋がかけられてジープが走っ
たのだろうか?

言うまでもなく司令官閣下の護衛態勢は強力で、宿舎の外には戦車が置かれ、またヘリパ
ッドも設けられていた。万一の際の隠れ家に使用できるよう、近くには洞窟も用意されて
いた。マッカーサーケイヴ、インドネシア語でgua MacArthurと呼ばれているその洞窟は
入口がたいへん小さく、おまけにマングローブの木がそれを見つけにくくしている。だが
中は十分広く、そして離れた場所に出ることができるようになっているそうだ。[ 続く ]