「バライプスタカ(1)」(2019年12月16日)

1908年9月14日付けの政府決定書第12号でオランダ植民地政庁は「植民地教育と
民衆図書のための委員会」Commissie voor de Inlandsche School en Volkslectuurを政
府機構内の「植民地案件顧問会」Adviseur voor Inlandsch Zakenの下に設けた。教育宗
教省Departement van Onderwijs en Eeredienstがそれらの部門を包含している。

ハゼウGAJ Hazeuを委員長とする総勢6人のこの委員会の使命は、植民地民衆に与えられ
るべき適切妥当な書物を教育宗教省教育局長に提言することにあった。植民地民衆に読ま
せるべき書物の選定が植民地統治行政のための重要な政策の一つであるという認識を政庁
は実行に移したのである。その裏側に不適切なものを読ませてはならないというアンチテ
ーゼが存在していることは言わずもがなだろう。

倫理政策がもたらした蘭領東インドにおける行政基本方針である「植民地の西洋文明化」
の重要項目のひとつ「原住民教育」に関わる指導と監督という両輪の実現形態がそれであ
った。


植民地政庁の原住民教育は19世紀後半に始まった。いや、その萌芽は強制栽培制度の時
代に芽吹いていたと言えるのかもしれない。

教育省が政庁内に設けられたのは1867年である。ヌサンタラの諸王国を支配下に収め
るにつれて行政機構が拡大し、官僚数の不足が起こった。ヨーロッパ人で賄いきれない部
分に原住民が充当されるようになり、原住民教育が避けられないものになってきたのであ
る。その時期に行われたのは官僚養成のための原住民教育であって、役人としての機能を
果たす能力を原住民に持たせればそれで事足りた。保健衛生・栄養・ヒューマニズムなど
の生活に必要な知識を持たせるような、西洋文明化のための教育よりもはるかに間口の狭
いものだ。

ところが、知識を持たせるという教育が単に知識の増大と蓄積にとどまらず、人間の精神
性に大きな影響をもたらした、とインドネシア人文教行政高官は書いている。原住民への
西洋文明化教育を体験した学生たちは、かれらの親の世代とはまるで異なる精神活動を行
うようになった。その時代のプリブミ青年たちの中に反植民地思想とインドネシア独立運
動が分厚い層となって形成されて行ったことがそれを証明しているという議論は、文明化
というものの本質を指摘しているようで興味深い。オランダにとって、蘭領東インドに関
するこれ以上に皮肉なものはなかったのではあるまいか。


原住民教育に使われた言語はムラユ語とジャワ語で、オランダ語はエリート教育機関とな
ったHIS(Hollandsch Indische School=原住民のためのオランダ学校)でのみ教えら
れた。その学校に入学できるプリブミはエリート層に属した。

植民地政庁が原住民教育のために選定したムラユ語はリアウ地方で使われている由緒正し
いムラユ語で、Melayu Tinggiと呼ばれて他の諸地方で使われている卑俗化したムラユ語
Melayu Rendahと区別された。

政府の肝いりとなった公定ムラユ語Melayu Tinggiのアルファベットを用いる正書法が1
901年にファン・オパイゼンVan Ophuijzenによって定められ、以後、オパイゼン式綴
りと呼ばれてインドネシア共和国独立後まで継続することになる。


19世紀末から20世紀初頭にかけて、蘭領東インドで印刷技術が大いに発展し、新聞や
雑誌などの印刷物が市井をにぎわすようになった。1890年には、ジャワ島のいくつか
の都市で発行される新聞が11紙あったが、1912年にはそれが36紙に増加した。も
ちろん、新聞以外の定期刊行物はもっと多数に上る。

メディアが用意されれば、そのスペースを埋めるための文筆活動がなしには済まない。メ
ディアが増えることは、文筆活動がマスで拡大することを意味している。華人系やヨーロ
ッパ系プラナカン、あるいはプリブミさえもが、散文・韻文・劇作などの文芸作品から新
聞雑誌の諸記事に至るさまざまな文筆活動を行いはじめた。

先鞭をつけたのは19世紀末に登場した多数の華人プラナカン作家たちで、当時バタヴィ
アに住んでいたプリブミ大衆がその生活環境内で一般的に使っていた華人ムラユ語Melayu 
Tionghoaやムラユ語ブタウィ方言Melayu Betawiで作品が書かれたために多くの読者を得た。

この華人系ムラユ語大衆文学の綴り方や用語法などのベースになったものが通俗的ムラユ
語Bahasa Melayu Pasarと呼ばれるものだ。[ 続く ]